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国語授業の効力

昨日は国語塾(中1・中2対象)の授業で哲学者串田孫一が1955年に書いた文章(『考えることについて』)を出題した岡山県公立高校入試問題過去問(2018)を扱いました。

この文章の中で串田は「知ること」というのは、知りたいという意欲を持って真剣に知ろうとすることであり、そこで獲得の喜びを伴って得た真の知識が自身の成長の助けになるという話をしています。しかし、(学校を念頭に置いて)「教える-教わる」の硬直化した関係性の中では「機械的な学び」が生じ、外部からの強制的な力によって「遂には試験のために勉強をするような現象」が生まれる現状を嘆いています。

しかし、お気づきになったでしょうか。国語科という教科はある種のとんでもなさを内包していて、よりによって入試問題を受けているさなかの生徒に対して「試験のために勉強をする」ことを思い切りディスるということをやってしまうわけです。私の授業を受けている生徒だって同じことで、彼らは塾に通って授業を受けている以上、模試や入試で「いい点を取る」ために私の国語の授業を受けているわけですが、そんな中で彼らは「試験のために勉強をする」といういままさにやっていることをディスられるという体験をするわけです。

彼らはこうして試験勉強に真っ当に取り組むことを通して、試験勉強の足もとを揺さぶられるような言説に触れることになります。実のところ私はこれこそが国語科の醍醐味だと感じていて、彼らはこのような経験を通して自分がやっている行為をメタで見る視点を獲得する道筋を得ることができるのです。一歩引いて試験勉強というものを見ながら、じゃあ僕はどうしてやろうかと考える機会を得ることができるわけです。

ただし、串田のこの文章だけでは、まるで知りたいという意欲がなければ知ることには意味がない、つまり、いまやっている勉強には何の意味もない、そんな曲解も生まれかねません。ですから私はこの文章を通して、考えるべき導線を子供たちにいくつか差し出すことになります。

機械的に勉強をする、つまりみんなが数日前に終わった期末テスト直前にやってたようにとにかく暗記しまくるような勉強、そういう勉強の仕方を全否定できるだろうか? 暗記して身につけた用語や公式がみんなの思考の拠点になって、そこから思考を深められるわけじゃない。そう考えると、暗記は意味がないなんて言いきれないよね。だから、この問題はそんなに単純じゃないよね。

だいたいさ、この授業もそうだけど、機械的な勉強をしようと思っても、それに没頭している最中は、少なくとも瞬間的には試験のためとかじゃなくて勉強そのもの、知ることそのものに没頭してそこに向かってるときがあるわけだよね。もしくは、機械的な勉強から逸れて勝手に思いがけない発想に向かったりすることもあるわけだよね。だからさ、必ずしも知りたいという意欲がなければ知ることにならないわけじゃないよね。

そんなふうに言っている間にも、子どもたちは「なるほどー」「確かに」「いやぁー」「そうそう」「でもねー」といろんな反応をしています。こんなふうに、あくまで串田の言う「試験のための勉強」の範疇で真正面からそのことに取り組みながら、なおかつその取り組みを俯瞰して味わうことができる国語科の授業は本当に面白いし、大きな可能性があるなと思えます。

こういう経験を通して子どもたちが実際に少しずつ深い思考力を身につけていっていることを実感できるのは、この仕事の他に代えがたい面白さです。(2023年6月)

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