輪廻
「ルリ、ちょっとくらい寝ててもいいよ。疲れたでしょ」
夕刻、リビングのソファで父が私の頭を撫でる。そこに邪念がないことにがっかりする。
「ぼくが後で起こしてあげるから」
「お父さん、もういいから」私はそう言って、父の手をやんわりと払う。寂しそうな顔で父は、「もう中学生だから恥ずかしいか」と苦笑いを浮かべた。それが普通の考え方だ。
みんな、年頃の子は中学生にもなれば思春期が訪れて、人目を気にしたり、親とのひとときを煩わしく思うようになる。
俗に、そういうものを成熟と呼ぶのなら、残念ながら私は未熟だろう。大人になったとはとても言えない。家族は好きだし、家族と過ごすのも好きだ。そしてその上、実の父親に自覚的な恋心まで抱いてしまっているのだから。病死した母には、合わせる顔もない。
もしこの気持ちがバレてしまったら、私はどうなるだろう。家族から疎まれるだけでは済みそうにない。普段から慕ってくれている双子の妹もわたしを侮蔑するだろう。学校でも我慢ならない恥辱を味わうことになるに違いない。だから、この父への愛情という名前のゆるされない気持ちは墓まで持って行くと決めている。
地獄の苦しみがそこにあっても、構いやしない。
「もうそろそろハリも、部活から帰ってくるだろうから、ご飯にしようか」
名残惜しさすら見せず父はソファを立った。父は私も妹も平等に愛しているから当然だ。すぐに父はキッチンの方へ消えた。
すっと、瞼が重くなった。好きな人の横にいて緊張しないなんて、無理な話だ。
実の父親が恋愛対象だろうが、そこは一般的な感覚と変わらない。この、緊張や恐れすらも異常になっていれば良かったのにと詮無いことを考えてしまうのは、疲れているからなのだろうか。妹のハリとは違い、私は体が丈夫でないから、すぐ疲労に負けてしまう。
ついに私は眠気に耐えられなくなり、ソファの上で身を丸めた。ハリが帰ってきたら、この緊張も少しは抑えられるだろう。普通の感覚を持ち合わせた妹といれば、この恋愛の苦しみも少しは紛れる。私の恋がもっと、点と点を繋ぐように簡単であれば良かったのに。
鬱屈とした気分を抱えたまま、私はまどろみに身を委ねた。
「じっとしてるんだよ」その囁くような優しい声で、私は目を覚ました。薄目を開けてみても部屋は暗かった。今、何時だろう。隣で衣擦れの音がする。
つと、横に手を伸ばすと人の手に触れた。妹の、ハリの手だ。しかしさきほど聞こえてきた声はもっと低かった。
ふと、そちらを見ると父が立っていた。そして父のその、男にしては細くしなやかな手は、ハリの方へと伸びていた。私は咄嗟に目を閉じる。同時に失恋を悟った。
○
ぼくが、実の娘に恋慕という名の劣情を抱くようになったのはいつからだっただろう。
父や母を、祖父や祖母を、姉や弟を、恋愛対象とする人間がいることは知っていたが、その枠組の中に、まさか自分までも含まれることになろうとは、思ってもいなかった。
この気もちを誰かに明かすような失態は、したことがなかった。ぼくは顔に出やすいから誰にも知られないよう気をつけていた。
むかしテレビでやっていたドラマの中で、実の息子を好きになる母親の話を見たときは「こんなひどい感情を抱く人間も世の中にはいるものだ」と、不快感すら感じていたというのに、いつの間にかその人間と同じになるなど、皮肉なものだ。
ぼくのとなりには、双子の娘のひとり、ルリが座っていた。今日は六限まであったらしく幼児のように眠気を堪えては、船を漕いでいる。
「ルリ、ちょっとくらい寝ててもいいよ。疲れたでしょ」
ぼくはちょっとだけ躊躇ってから、娘の頭を撫でた。いつまでも子どもだと思っていたが、娘はよろこばしく悲しいことに、中学生になってしまった。今はやんわり拒否される程度だが父親に触れられるのをいつまでも許してくれるわけじゃない。激しい拒絶に変わる日も、近いのかもしれない。
なにより、ぼくはルリを好きなのだから、その拒絶がどれほど恐ろしいかは言うまでもない。だが、まだ大丈夫と自分に言い聞かせ、彼女に触れる言い訳を作っているのも事実であり、救いようがない。病死した妻には、会わせる顔もない。
誰かに理解されるとは思っていない。この気持ちは一人で抱えて過ごすと決めていた。
壁掛け時計にふと目を遣ると、そろそろ、もう一人の娘の、ハリが帰ってくる時間だった。ぼくにとって、二人とも愛すべき娘ではあるが、どうしてもどちらかを選べと言われれば僅差でルリを選んでしまうだろう。
とてつもなく、親としては最低で間違っていると思う。
こんなろくでもない感情、捨てられればいいのに。僕は首を振って立ち上がる。
夕食はこども達の好きなカレーにしようと思いながら、キッチンへ行く。ソファの上では、ルリが既に寝息を立てている。それを見て、胸の奥を擽られたような気分になった。
人参を輪切りにしていると、ハリが帰ってきた。ぼくと言葉を交わした後、ハリはすぐにソファで寝ているルリのもとへ行った。ハリとルリはよく似ている。顔も瓜二つだ。
二人がまぶたを下ろしているのを、ぼくはキッチンから眺めた。火を止めて、そちらに近づく。ふたつのよく似た花を見ているような不思議な気分になった。二人を見分けるときは目元のほくろを見ればいい。あればルリだ。「じっとしてるんだよ」ぼくは、そう囁いて、さきほどの続きをするように、ルリに触れた。下心ないといえば嘘になる。
しかし、ぼくが触れたルリはルリではなかった。目を開けたハリがぼくを見つめていた。
○
「知ってたよ、お父さん」手をわななかせる父に向かって、あたしは囁く。
弁明をしながら、父は、数歩後ずさろうとした。あたしは袖を掴んで引き留める。
「う、うそだ。何でハリが、そんな……」
バケツの水を浴びせられたような顔をした父は、何度も「嘘だ嘘だ」と繰り返し、ひどくうろたえていた。あたしは一抹の罪悪感を覚える。だがやめるわけにはいかない。
「ハリ、離してくれ。僕は、こんなつもりじゃ……」
「いやだよ」手に力を込める。「お父さん、お姉ちゃんのことが好きなんでしょ? だからあたしはこうするしかないんだよ。……あたしは、お父さんが好きだから」
白々しい。姉と父が好き合っていることは知っているのに。
「べつにいいじゃん、あたしにすれば。顔は一緒だよ。双子だもん」
愚にもつかない愛の言葉。都合のいい人間になる一歩だ。でも、それも仕方ない。だってこうでもしないと、父の好意の矢印をずらせない。
はじまりは覚えていない。ただ、気づいたときにはもう、あたしは姉に恋をしていた。こんな感情は許されない、諦めようと何度も思った。だが、日を追うごとに、姉への感情はセンチメンタルになっていき、取り返しのつかないところまでいってしまった。
薄汚いあたしは、そうして、父の好意を自分に向けることを思いついた。あたし達三人のゆるされない感情を循環させれば平等だと思ったのだ。ほくろもそのための偽装だった。
「しかたないでしょ。好きになっちゃったんだから」父の繊手を、自分の胸元へ導く。もう、これで、後戻りはできない。隣で眠る姉の手を握る。父の指が、胸に触れた。
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