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愛とは、全てに終わりがある事を肝に銘じて、決断し生きる事。

 こんばんは。
生命という器の中にある命その命を生き切ること
死とは、命とは、生きるとは、
そちらを考える中で、今この5,6月
私は愛するって何?を模索して生きてます。


 愛も、恋も、そして今日も、
この地球だって終わりはあると思ってます。
私は個人的な見解としてすべてが終わりがあると思ってます。
終わりがないと始まりがない。
流れがすすまない
その終わりがある事を肝に銘じて
だからこそどう生きるか、どう、関わるか
どう行動するかを決める事それが愛だと
想ってます。
今日はその理由を書きたいと思います。


私の父は、今、この世にはおりません。
私なりに後ろにいるような気がしておりますが。。
難病のパーキンソン病に罹患し
自宅療養しておりました。
その後、自宅療養でも難しく病院への入院となるのですが、
いよいよ体力が限界となり
誤嚥性肺炎が悪化し、厳しくなった時
私は、最期に会えないことを覚悟しました。
介護休暇をとる、仕事を辞めることも
頭によぎりましたが、
私はそのとき、仕事を続けることを選んだ。


 覚悟する中でも
それでも、あの元気で、いつも強気な父が
そんな簡単に逝くはずがないと思っていた。
でもその時は突然訪れて、予想したとはいえ、
母から電話がきた。
静かに、母は電話口で、私に告げました。
おとうさん、今亡くなったから。。
でも、あなた今日夜勤なはずよね。
勤務に集中しなさい。
今そこに穴をあけるのは
お父さんは希望しないからね。』

そう言って母は電話を切ってしまった。


 私は勿論、その言葉を受けて
夜勤をしてから、帰宅しました。
それが良いのか悪いのかはさておいて、
母は、
最期があることを認識したうえで、
そしてその最期を迎えても、
夜勤に穴をあけるなと、私に言う人でした。
そして私は、
その言葉を受けて、父の想いを感じ
親の死に目には会わず
夜勤をしてから、父のもとに帰った。


 母も看護師で私も看護師。
私達は
他の職業もそうかもしれませんが、
血縁の死に目に最後に、間に合わないことを
どこかで覚悟しています。
それは、命に終わりがあることを十分わかろうとしており
自覚している
だからこそ、
それが良いのか悪いのかは別として、

その最期の瞬間も
動じず、私が私であることを大事にして
生きていく、時間を過ごすことで
父を想い、生き抜いて、弔ったと思ってます。
私はそばにいる事、
実際会うこと
それだけが、愛する事とは思ってない。
この関係性に終わりがあることを自覚して
それなら、今私はどう動くか、どう生きるか
それを熟慮して、流されず私として行動する事
それが愛する事だと思ってるのです。
これはあくまで私の考えですが。、、


 今ある日常、この日々に
必ず終わりがあることそれを
胆に銘じて
厳しいようだけど、現実なので
じゃあどうするか、
そこの判断をせめぎ合いながら考え
葛藤し、決断し精いっぱい生きる事。
それが愛する事。
そう思ってます。

~今日は、6月の梅雨前の
初夏を思わせる空気を感じました。
今日の幸せな何気ない日常は
いつまでも続かないかけがえのなさに
そして、今日もあなたが、生きていることの
かけがえのなさに、
深く感謝して、私も生きていることに感謝して
静かに夜を過ごしたいと思います。
今日も命にありがとう。
そしておやすみなさいませ。


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