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災害における死~3.11によせて~

今日は3月11日
13年前のこの日東北地方太平洋沖地震が起きました。
この時のことを思いつつ、災害における死について
書かせていただきたいと思います。

まず、この地震をはじめとして、日本はたくさんの災害があります。
今年度においても、1月1日能登半島地震があり、
被災した方は、いまだ、日常を取り戻せていない方もおられます。
被災された皆様へ、心からお見舞い申し上げます。
何もできていずもどかしい気持ちですが、ここで役割を果たしつつ、
皆様の心に春の光がさすことを、お祈りしています。



地震の時の記憶

3.11の際、私は、夜勤明けでベッドで寝ていました。
突然の揺れに跳び起き
すぐに外にでました。
その場で、携帯を電話したけどつながらず、
自転車に飛び乗り、近くの公衆電話で直ちに自宅に
電話をし実家に電話を安否確認したのち、
働いている病院へ自分の無事を報告したのちその足で
自転車に飛び乗り病院に向かいました。
(病院までは45分ほどですが、体力維持のため
私は自転車でこの時期通勤していました)


病院に行く道中ですが(私は関東の病院に勤めています)
時折看板が落下していたり、ガラスが割れ落下していたり
震源地でなくとも被害があり、道路は渋滞していました。
私は自転車で潜り抜けるように、向かいました。
向こうから、高齢な夫婦が腕を組み歩いており、
奥様であろう方が顔面から血を流しながら歩いているのも
見えました。
「人によっては大きなダメージが、震源地でなくとも
くるんだろうな。」
それが私の最初に感じた印象でした。


被災地支援での出来事

私はこの時期は救急病棟でなく、一般外科病棟に所属。
ですが、翌月の5月に被災地支援へ、東北に、
1週間いかせて、いただきました。

主に実践したのが、
地域の体育館、被災地の拠点に赴き
そこで、診察と配薬、今まで在宅診療などでできていた
看護処置などの実践でした。
朝になると列をなして、たくさんの方が、
並んでおり、そちらの方々に対し
医師と共に、お話させていただき、お薬をお渡ししたり
ケアをさせていただきました。


 そのとき、気づかせてもらったこと~

災害はそのあとのケアが本当に重要なんだ。。
この救護チームに参加した時に思ったことでした。
私達救護チームも大きなことはできませんでしたが
被災地の方は、長い時間お待ちしたにもかかわらず、
感謝の言葉をいただき、
「心臓の薬がきれていたから、本当に救われた。」
「在宅酸素をしているのだが、酸素がなくなりどうすれば
よいかわからなくて、連携してもらい本当に良かった」
などと切迫した、物、人、治療する場の減少に伴う
想いを聴かせていただきました。


災害における死について

ここで、この日、3,11を忘れず、
自分の行動につながるためにも、災害における死について
まとめていきたいと思います。

災害における死は、2つに大きく分かれると言います。
以下の図です。
災害による直接死、そしてその後の災害によるけがや
避難所生活におけるストレス負担による死です。

https://bigfjbook.com/drd/

医療が適切に介入すれば避けられる場合もあります。
この防ぎえる、災害死を少しでも減らすため
各地のしかるべき病院で、現在においても、能登半島に向けて
1月1日の地震においては被災地支援の継続が
なされていると思います。
私の病院でも継続支援がなされております。


それでも、なかなか、できることができない。歯がゆい思いをしています。
私自身も、単独で、出向きたいと思ってしまうこともあります。
ですが、今ここでの役割があるので、
そこの穴をあけずに、生きていくこと
そして、命が今あること、それは奇跡なのだという
想いをかみしめている朝です。
今生きている命、それは誰かが、被災して、生きれなかった命です。
今日も、明るく、しなやかに、生きていきたいと思った朝でした。

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