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~愛されてない。。という想いを抱えるあなたへ~

こんばんは
生命という器の中にある命
その命を生きる看護師です。


 今までその命を生きる中で
生活をしていく日常の何気ない関係性
日々、離れて暮らす親、妹、血縁の皆様血筋を考える日常
看護師という働く中での日常
その中で『愛するとはどんなことなのか』 もしくは
『愛ではないとはどんなことなのか』を気付きを記しました。
今日は、その今までの私のできうる限りを使って
『愛されなかった』もしくは『愛されていない』
そんな感触を、実はひそかに持っているあなたと共に
もっていないあなたもご一緒に
『それでもあなたは、私は愛されていた』
そんなことを、是非考えたくて、記します。
(無理はせずに、なんとなく読みたくないそう思ったら
 辞めてもOK。不快なことすべて含め意見があったらうれしいです)




1私の『生きづらさ』を抱えたことについて

 私の『生きづらさ』を抱えた経緯の一部について、記したいと思います
私と父の関係性のエピソードについては、こちらにも記しました。
命の連鎖を思い、未来に目を向ける|命に向き合うとある看護師 (note.com)

 ①幼稚園から小学校まで
私が生きづらさを感じたのは、幼稚園のとき。
父の口うるささ、行動制限です。
私をすべてを想ってのことなのですが。
~幼稚園から帰ると、いつも何かを指摘され、厳しくしかられ時に
手が飛んでくる、殴られる日々。~
~ただ殴るというわけでなく、順序だてて説明もあり
それでも過ちを繰り返す、約束を守れないとき
感情も抑えられず激高して、手が飛んでくるわけです。~
そこのレベルを下げるということを
知らない。譲らない。
~近所の子と今遊びに行きたいということに、なぜか制限をかける。~
 今風邪ひいてるからだめ、あのことは遊んじゃだめ
 
(愛情があってのことです。この時代は巨人の星、アタックNO1など
そんな漫画がテレビ番組で流れているそんな世界と通じる状況です)
 巨人の星について:怒りのあまり食卓をひっくり返すシーンこのような感じです

巨人の星に出てくる父、激高して食卓をひっくり返す場面
https://www.tms-e.co.jp/alltitles/1960s/005101.html

疎ましく想い、幼稚園年中組で
近所の仲良しのお友達のところにどう家出するかを
シナリオを具体的に考える子供でした(笑)
何故かというと
いつも私のやりたいを、ダメ!と言って、
我慢、我慢、の感触だっだからです。
その当時は真剣でした。
~付け加えますが、父親は非常に愛情深く、守りたいそう
思うからこその、行動です。~


 また、父も母も、ご先祖様は
代々続く農家の家の血のつながりの中生まれた方達です。
忘れもしません。
小学四年の時に、父とお茶を飲んでいるときに
確か、将来のことなどが話題になったときです。
改まって正座をするように、いわれ、
私にいうわけです。
いいか。お前は長女だ。だから、この家を引き継いで、
だから結婚するとしたら、そんな人だよ。』

~私は衝撃を感じるわけです~
 もうその当時、嫁いで家を出る事!を心の中で
計画(笑)していたので、えええええ⁉
長女はこの家にずっと大人になってもいないと
いけないわけ!?
それは大変どうしよう。。』


 その時に、
『とんでもない、いやだよお父さん。。』
それが言えたら、よかったんです。
ですが、私はそれが言えない子だった。
『言えないよ、言わない』を
選択してしまった。

(ちなみに、妹は、
 そんな父としっかり対抗して、口争いだけでない
 家から庭まで追いかけっこして
 殴り合いに近い喧嘩をしています・笑)
妹とも今は、懐かしい思い出として話し合うこともある感じですが。。

~今はこれもいい思い出です~


 でもそこに十分彼なりの愛情があることは、
感じていて、その愛情の深さに、小さいなりに
本当に感動することも多くて、
だからこそ、私は何故か、『嫌だ』が
言えなくなってしまった子供でした。
ここで念のため父の名誉のために父の深い愛を
記します。
↓~父の忘れられない私の生きる支えとなっている
父の笑顔~

今でも忘れない。出生時からの股関節脱臼があり運動において発達遅延があった私は、予定は3歳のところを中途4歳から幼稚園に入園する。
幼稚園のバスに乗り込むとき、父が送り出してくれた。
今まで父の腕の中に担ぎ上げられてだっこされていたのに
じゃあねいってらっしゃい。その言葉とともに、幼稚園の先生の誘導のもと
素早くバスの中の席に座る
突然の一人にびっくりして、顔がゆがみ泣きそうになり父を見たとき
父が見事なまでに、とびっきりの思いっきりの笑顔で、
『いってらっしゃい!!』振り切るように手を振っていた。
~そのいつも厳しい父の、思いっきりの笑顔に、びっくりして
 つられて、うるうるしながら手をふる自分がいた~
この父の笑顔がいつも、私の生きる基盤。


 ②その後の思春期における葛藤
 父の、長女は家を継がないといけない。。は
まったく変化することなく
その重圧が重くのしっかり
だが、それに対して、
しっかりと自らの思いを、表出する機会を私は
作れなかった、逃げてしまった

『私の人生はどうなっていくんだろう』
~でも絶対に、言いなりになるつもりはなくて
激しい争いをする元気も活力も私にはなくって
そして綿密に私は、父から逃げる計画を立てます~
 
進路についても自由にしていいよなどという言葉はなく、
~大学に行くなら国立でなければならない。
そうでないなら、進学などするな、働け。~
~遠方なところなど、行かせる理由がないし
地元にある学校で十分間違いない~

私が考えた作戦は下記でした
・とにかく自立しよう。今ここで争そうほどの気力がない
(特に私の高校時代は、生きてるという感触があまり感じていません)
・父と母が、了承してくれるところを学校を選んで、
寮に入って、そのあとは遠方に就職を、して親元を離れよう。


 その時の私はとにかく必死でした。
なぜそこまで、私が親元を離れようとしたのか。
それは、私自身の人生を生き抜きたい、自分の人生は自分で決めるんだ
という私なりの、未熟な思いでした。
でもそれだけではなかった。こう思ったからです。
『このまま自分が、自分を抑えて、この家にいたら
私は父を、どこかで、憎しみのあまり
抑えきれない感情の元、傷つけてしまうかもしれない。』


2成人してからさらに感じる生きづらさ

 もう遠方に逃げたし、((笑))違和感を感じたり
葛藤することもない。じぶんが好きな自分がやりたいこをやり
仕事もがんばろ!
そう意気込んで入職しました・
でも私はここで混乱します。
自由な時間、休む、遊ぶ、寝る、ということに罪悪感を感じる。
その前に、休みのときに、楽しむことをする、自分が何が好きかが
イメージが沸かない。何をしたいのかわからない。。

その混乱に驚き、そして、落ち込み、
特に4月入職した当時、仕事ももちろん、失敗続きで
その失敗した自分を許せず、攻め続け
休日を、失敗した自分を責め、気分転換する方法もわからず
そしてもちろん
気の置ける友人、同期の存在がいるのに
助けてが言えない、自分がいました。


21から25歳は、私がどう生きていったか、正直
細かい記憶がありません。
そんな中でも、父から逃げた自分
父と対面して、正直に自分の気持ちを言わなかった自分
そこに激しく罪悪感を感じており苦しみ
頻回に、夜、父が出てきて喧嘩する、父が起こっている夢を
見て苦しむ、そんな若者でした。

~明らかに、人を看護するなどできない、自らの精神的不安定さを
抱えていた~
でも、でも、絶対にあの実家には
今このつらい職場だからといって
やめて帰ることは死んでもしたくない
その当時本気でそう思っていて
死ぬ気で、私は病院の仕事にくらいつきました
 入職した部署は救急センター。
上記のような不安定さを抱え仕事をしても
うまくいくわけがない。集中力はかけ、
遅れをとり、ミスを繰り返す。
教育担当副師長が心配してくださり
個別に面会を設けてくれた、
そんな新人でした。


こういうときは、恋愛もうまくいかない。
決まって振られてます。(笑)
『私は、仕事も恋愛も人生もうまくいかないんだ』
そう実感して、悲しくなり寝る前に泣く、そんな
暗い心持ちで生きている、
20代だった。。。
心がつらくて、個人のカウンセリングを受けに
行動できない自分を駆り立て、行ったこともあります。
(今振り返ると、大福に砂糖をかけたように甘い、自分しか
みえてない、、恥ずかしい限りでもあるのですがその当時は
命を生きるのにそれは必至だった)


3訪れた転機

①忘れられない事例とその瞬間

そんな、やや暗めでも、なんとかくらいつき、仕事をして
救急センターで2年目を迎えたときある患者様を担当します
そして、これが私を変える事例となります。
 その事例の詳細は翌日の記事に詳細を書きますが
結論からいうと下記です。

急性の大きな病気(脳動静脈奇形)があり意識障害、生命のリスクを抱えた
患者様を担当する。
40代女性。3児の母。
なんとか手術を3回繰り返し、命をとりとめたが、私が救急センターから
他院の脳疾患専門リハビリ病院へ転院送り出したときは、
重度の意識障害が遷延。発語なく、声掛けで反応もなく、わかりやすく言うと植物状態であった。
~このまま、お子様の顔も認識識別することもできず、ずっと、このまま
人生が進むのだろうか。。~
私は絶望もありつつ、でもできることをして、送り出した。
その2年後。
彼女が片麻痺なのに、娘様に付き添われ、片手で車いすを押して
『一番大変だった時担当してくれた、とあるさんに会いたい。。』
そう言って、直接救急病棟へ訪れてくださった。
泣きながら私の手をとり
『ありがとう、ありがとう』
そう、言ってくださった。
そして、リハビリを重ねてやっと書いてくださった、ひらがなとカタカナの
手紙をくださった。。

②引き継がれた母、父のご縁に抱いた憎しみが溶け出した。。。

なぜ、私が厳しい職場で頑張れたか。
私なりの志、夢はあったけど、まず第一理由は、
『逃げて帰る、そんなことは絶対にできない。
父にそんな姿は見せないし、実家に帰る選択はない』
そんな憎しみも伴った覚悟でした。


上記の思いがけない、訪問があったとき、復讐の覚悟が溶け出しました。
病院では必死で耐えた涙が、寮に帰ったとき止まらなかった。
泣き続けました。泣き方が尋常でなく、自分でも、びっくりしました。
涙がとまらない。
『こんな私に実に2年後に、
ありがとうを言ってくれる顧客である患者様に出会えた。
こんな私にも!!何もできなかったのに。
もう植物状態だろうなんて思ってしまった私に。
私も役に立てた。。

そしてふつふつと看護師になれたことに感謝が湧くのでした。
当たり前に周囲に抱く感謝を私はやっと4から5年目で抱くわけです。
『こんなにできないのに、
やりぬけたのは、どうしてなのか。。かなわないな悔しいけど
父が厳しくしてくれたからかもしれない。
そして、このできなさに付き合ってくれた、
上司と先輩、同期の仲間何だね。。』


③親のせいで。。→親のおかげでに変わった瞬間

人生の中でここで一発逆転この問題クリアーとまでは
いきません。
ですが、この事象が明らかに私の世界、
私が見える世界が変わった瞬間でした。
私はこのまま、親と疎遠になって、憎しみ
そして死ぬんだろう。。、本気で思っていたのです。
ですが違った・・
私なりにわがままで、未熟だったけど
必死で生きていく中で
思いがけない出会い、出来事が(上記)があり
『あの父と母の間に生まれることができて。
あの父の厳しさのおかげで。。』
そう解釈せざるを得なくなったのです。

まさか、患者様を支えていると自負していたのに
患者様から大きく支えられるとは。。これも驚愕でした。

~それまで数回、個人経営のカウンセリングや、
 親との関係性におけるトラウマ改善セッションなどの
 機会を、自分でお金を払って参加していました。
 それでも心の深いところに響かず
 私は、いつも、あの親のせいでと解釈する
 人生を選択していました。~


 
私の人生のほんの一部の家族の関係性
この込み入った、読みづらい文面をここまで
読んでくださったあなたへ、本当に感謝します。ありがとうございます。
そして、、
~愛されていない、、必要とされていない
            そう思っているあなたへ~

 私は愛されていない。。
 私も、そう本気で思っておりました。
 愛されていないから、恋愛もうまくいかない
 愛されていないから、仕事だって、うまくいかない
 愛されてないから、眠れない。
 まるで、まったく目が見えない何かに覆われた中で
 それでも頑張っているんだと一人で生きてるそんな世界でした。

 これが苦しかったんです。
 親だけでなく、周りの友人、仕事がうまくいっている同期。
 そこに祝福もできず、心が乖離していく。

  それが、転機に出会い、
 泥沼のループにはまっている自らに気づいた瞬間でした。
 ~そしてはっとするのです。
  私はいつまで、親のせいにして、自分の人生を
  自分の時間を、ふらふらと、頼りなく生きるんだろう。
  いつまで、やめたい、私なんかできない、そんなことを言い訳にして
  必死で命を生き抜いて、お礼に来てくれる患者様もいるのに
  病院で働くつもりなんだろう。。~
  そう問いかけたとき、それでも日々なんども、
  また他責になり親を憎んで、それでまた仕切り直しを繰り返し
  そして覚悟をきめるのです。

この父母の出会いに目を背けないように、もう私は、心を決めよう。
この職場に出会ったことも。
誰にやめろと言われても、
誰があなたは、救急は向いていないそう言ってきても、私は、
正式にくびになるまで、やれるところまで、ここでやる。』

私が覚悟を決めた日。

 もし、体力と体調が、不調ながらも生活できて
仕事ができて、生きている、、20代以上のそんなあなたへ
このメッセージをもしよろしかったら、、ぜひ。

無理せず、私のようにスパルタで声かけるのでなく
やさしく寄り添い、もう一人の自分に段階を踏んで、
声をかけてほしいのです。

1存分に自分を認める
愛されなかった。。そうあなたが思うんだったらそうなんだね
今までよく生き抜きました。よく頑張った
ありがとう自分、すごいよ自分』
『つらかったね自分、えらい。。』

2自分を認めたところでそっと問いかけてほしいのです。
 『愛されなかった自分、、そのこともよくわかる。
  でも、、その役回りをいつまで、やる?
  いつやめる?』

  もう、やめてもいいんじゃない?
  だってあなたは、今まで見事に生き抜いて、そして
  今大人になれた。
  大人になれたということは、あなたは愛されなかったのかも 
  しれない、、そう解釈しているけれど
  あなた自身であなたを守り
  あなたがあなたを愛することができた。。
  あなたはよって愛されている。。凄いことです。
  
  ~これは今まで起こった出来事、そして目の前に起きてる出来事
   それはあなたが、実は選べるんですよ~
 という、明らかな現実をお伝えしたかったため
 こんな長い記事となりました。

 
 そして、人の苦しみはその人にしかわからず、それは耐え難いことも
 あることを想像して、覚悟し、あえて言わせてください。
 それでも、それでもあなたは、愛されています。
 今そこにあなたがいてくれて、息をしている、生きている。
 それは奇跡。その命の今までの軌跡にありがとうございます。

 その命は誰かが、必死で、生き抜きたかった時間なんです。。
   
最後に、あなたが
愛されていると思っていても
愛されていないと思っていても
私は、あなたがここにいてくれて生きてくれている
それが、全力でうれしくて、今このメッセージを伝えております。
ありがとうございます。
そしておやすみなさい。


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