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名将・野村克也監督が語った『リーダー論』 「人を動かす言葉、哲学を持て」・・・という記事の紹介です。

施設のコロナ終息まで後3日です。
もう何事も起こらない事をただただ天に祈るばかりです(感染予防対策と消毒は徹底していますが、これまでも徹底していたつもりなのにクラスター化しましたのでどこまで徹底しても不安です)。

久しぶりにリーダー論について面白そうな記事を見かけたので紹介します。

「財を残すは下、仕事を残すは中、人を残すは上」

”野村再生工場”の異名で知られた野村克也氏。
さまざまな記録を打ち立て、球団を勝利に導いた監督が常に心掛けていたのは、「哲学」を持って組織を率い、自ら学び進歩し成長する「人」を育てることでした。

じんぶん堂

この言葉は知らなかったので心に響きました。
人を残すは上・・・ほんとうに大切な事で、これが出来てなかったから今の介護業界があるといっていいと思います。

哲学を持って組織を率いる事、自ら学び成長する人を育てる事は大切な事だとわかっていても、なかなか実践できなかったり簡単ではない事だと思います。

野村監督でさえ”常に”心掛けていたという事ですから、この部分をかなり意識して取り組まなければ、それ自体が非常に難しい課題なんだと思います。

ですので、僕も含めて世の中のリーダー層は、こういう事を常に意識しておかなければ、育成もうまくいかなんだろうと思いました。

感動させる言葉を持ち、心を射抜け、それができるのがリーダーだ──。監督は、本を読み、先人から学び、考え、経験と結びつけながらそれを血肉にしていかれたのでしょう。

じんぶん堂

僕自身、職員に指導する際には、利用者さんの心を動かす言葉を見つけなさい、と助言してきましたが、この”心を射抜け”というのはすごく大事ですよね。

人の気持ちを動かす言葉を伝えるには、やはり想いが伴わないとダメだとは思います。
それって先日記事でも紹介した、脳の同期にも通じるような気がしますし、そういう同期の状態を作った上で、心に刺さる言葉を伝えれば、本人の気持ちを動かせる事ができるのかもしれません。

心に何が刺さるのかは、やはり関係を作っておかないと知りえない情報ですので、やはり日常的なコミュニケ―ションは非常に重要ですね。

これは職員育成だけではなく、利用者さんへの対応でも必要なスキルだと思ってきました。
ですので、現場の働き方を見ていればリーダーの素質があるかないかは見分ける事ができると思っています。

「言葉を磨かなくてはいけない」という言葉の奥にはいつも、監督のご自身にも向けられた想いがありました。そして、その想いこそが、リーダーの持つべき「哲学」であり、それを伝えることで人が動き、育つのでしょう。

じんぶん堂

言葉を磨くというのは難しいですよね、僕自身は人前で話したりすることはもともとが苦手だったので、すごく話下手ですから、これから人を育てようと思っているわけですので、この言葉を磨くという課題については避けて通れない課題だと思います。

「判断は頭でするもの、決断はハートでするもの」

チームという組織を率いることについて監督はこのようにもおっしゃっておられました。部分を見て判断するのがコーチだとすれば、監督は全体を見て決断する。

じんぶん堂

現場リーダーと管理者の判断が違ったりする多くのパターンはこの部分ですよね。現場としてはそうかもしれないが・・・という判断を迫られる事は本当に多かったです。
振り返ってみて全て正しい選択だったか・・・と問われると自信はありませんが、たとえばずっとそこで務めている事ができたのなら、それぞれの判断や決断を必ず成功に導けたのだろう・・・という根拠のない自信はあります。

決断はハートでするもの。
すごく重い言葉だと思いますし、今の僕ならすごく理解できます。

決断を迫られるケースの多くが先がはっきり見通せないような選択ばかりでした。・・・だから管理者やリーダーが決断を迫られるわけで、先が読めるような状況では決断する必要もありませんから。

ここを自分のハートでするんだぞ、という野村監督の言葉です。

勘や思い付きではなく、自分で決めたのなら最後までその決断の責任を負え、そのくらいの覚悟をして決断せよ、という事なのだろうと思いました。

きっと、そこまで管理者やリーダーが考えていれば、周囲の雑音ではなく、必要な情報なり助言が聞こえてくるようになると思います。

中途半端なリーダーだと、どうしても現場サイドの意見に引っ張られがちで決断できない事が多いですが、会社として組織として考えれば、そこの選択肢を選ぶ事はそこまで難しい事ではないと思っています。
要は聞こえてくる雑音の大きさに心が参りそうになるんだと思います。
少なくとも僕はそうでした、まだまだ未熟だった時に周囲の言葉に圧し潰されそうな想いをしてきました。

ただ、それも自分自信がリーダーとしてどういう目線で物事を見ないといけないのかを理解した時・・・僕の場合は、ご利用者様一人ひとりにとってどうなのか、という視点でした・・・に、決断に必要のない雑音は聞こえてはいるけど頭や心に入ってこなくなりました。逆に、決断に必要な声が良く聞こえるようになりました。

それを感じた時に、リーダーとしてレベルが上がったのかなぁ、と漠然と感じる事ができました。
管理者としてリーダーといて、会社や組織の利益を優先しなければなりませんが、僕自身は、その為には一人ひとりの利用者様が、本当に必要なサービスや支援を受けることができて、よりよい人生を謳歌してもらえる事だと思っていて、それが会社や組織の利益につながると思っていますので、ここがブレなくなった時に、決断しやすくなりました。

監督、つまりリーダーは、野球でいえばバッティング、ピッチング、守備、戦略といったすべてをつかさどる脳の役割を担うのであり、それらをもとに決断するときに不可欠なのは、「これに賭ける」という気持ちなのだと。それが「決断はハートでする」という言葉に表れています。そして、そのハートを支えるのもまた、「哲学」だと監督はおっしゃりたかったのだと思います。

じんぶん堂

ですよね・・・という感じです。
これに賭けるという気持ち・・・本当にそうですね。
これがないと多分誰もついてこないですよね。

このハートを支えるのが哲学だ、という事で、自分なりの哲学を持っておくというのは非常に重要なポイントですね。

なかでも、「監督業とは気づかせ屋である」という言葉には、選手の力を信じてそれを伸ばすことが監督の仕事、という信念が滲んでいます。

じんぶん堂

気づかせ屋というのは面白い表現ですし、僕自身もリーダーとして育成する時に大事にしていたのが、本人が自分で気づけるにはどうしたらいいか、という事を常に悩んでいました。

また、甘いかもしれませんが、どんな職員でも可能性は常に信じていました。本人に成長する意欲がある場合に限りますけど・・・。

若くて未熟だった頃は、リーダーとして指示を出してその通りに動くチームが気持ちよかったです。
なので、具体的な指示を細かく出したり、ダメ出しも細かくしたり、言ってみれば監視するタイプのリーダーでした。
ですので、自分がいない時のことが心配でほとんど休みなしで仕事をしていた事もあります。

それがダメだと思ったのが、チームが指示待ち状態になっていた事に気が付いた時でした。

こんな簡単な事も応用できないのか・・・
何を一生懸命教えてきたんだろう・・・
そんな想いで、どうしたらチームが自分で考えて動くように育てられるのかをいろいろ調べました。

そういう取り組みの中で、任せたり信じたり、褒めたりする中で徐々に自分たちで創意工夫する職員が育つようになりました。

ただ、そういう中でも指導方法が甘い、はっきり注意したりするべきだ等の苦情は受けましたが、僕自身は様々な失敗から一人ひとりが何かを学んでくれる事を信じていて、今はそういうスタンスで指導育成をしています。

そういう中で実感したのが、成長する意欲のない職員にはこの手法は効果がない、という事です。若干はあるのかもしれませんが、意欲がない職員にはほとんど糠に釘でした。なので、そこをどうするか、というのが課題でした。
今後の人材不足の中で、意欲があろうがなかろうが、採用している職員をしっかりと育て上げる事は、どの業界でも必須課題であると思います。
そう思っていたところに、今回の野村監督のこの記事でした。

意欲がなくても意欲がわくように想いを言葉で伝えんかい。
という事なのだろうと思いました。

介護の現場で僕もよく使う言葉ですが、介護職が限界を作ったり諦めたら、そこが利用者さんの人生の限界になるぞ。という事なんですけど、僕自身が自分で意欲のない職員は育たない、と諦めてしまっていたので、そこからの創意工夫も生まれない状況だったと思います。

正直、はっとしましたね。
ヒヤリハット報告書、書かないとダメですね。

監督が「人を育てる」ということに関して語った言葉を本書のなかからいくつか抜き出してみると…。

・教えすぎず、気づかせよ
・耳に痛い言葉こそ真剣に伝えよ
・目標を明確にさせよ
・結果よりプロセスを重視せよ

どれも納得できうなずくことばかりですが、こうした原則のもと、さらにほめること、叱ることに関してこんな考えを実践していたのが、野村監督の名将たる所以でしょう。

じんぶん堂

耳に痛い言葉こそ真剣に伝えよ、これは重い・・・。
相手にとって本当に痛い言葉って、伝える側も伝えにくいんですよね。
これは本当に実感としてありますし、この真剣に伝えよ、という部分を自分なりに理解できたのが35歳を過ぎたくらいだったので、これをもっと早く理解していれば・・・と本当に思います。

中途半端に相手のためと思って選ぶ言葉よりも、僕自身が真剣に考えた言葉をそのまま伝えた方が本当によく伝わりますし理解してもらえます。

なので、痛い事を伝える時にはとことん自分で真剣に悩んでから伝えるようにしてきました。

結果よりプロセスを重視せよ、というのは本当に介護の現場で欠落してしまっているポイントだと思っています。
プロセスをどう評価するか、これは本当に重要で、介護現場の離職率が高い原因の一つがこれだと思っています。

・人は叱ってこそ育つ。ただし、「叱る」と「怒る」をはき違えてはいけない
・結果だけで叱らず、「準備したうえでの失敗」はむしろほめよ
・ほめるときは、本人の自己評価より少し上の評価をせよ

そもそもなぜ叱るのか? それは期待しているから、と野村監督は語ります。もっとできるはずなのに、そのレベルに達していないから叱るのだと。

じんぶん堂

僕は、ほとんど部下を叱りませんし、叱るにしても他人の目が届かない場面で叱ります。

ただ、野村監督のいうように期待しているレベルの事が出来てない部下には、思わずその場で叱ってしまう事があります。
もう頭を使ってないので条件反射なので期待してる部下ほど僕に叱られたりしたのではないかと思います。

ただ、僕も人間なので指導したい人や助言したい人は、やはり選んでしまうんですよね。この人は伸びる・・・と思っている職員には注意する事も多くなります。

ある時、全然期待していないと言ったら語弊がありますが、そういう職員から『私も怒ってください!』という意味不明な訴えをされた事がありますが、思わず『そこまで期待してないから無理だよ』と言ってしまいました。

その職員とは普段からコミュニケ―ションはしっかりとれていたので、ポロっと出てしまった言葉でしたが、さすがにションボリしていました。

慌てて『俺が期待できるくらいのレベルまで上がってこい』と補足しましたが、逆効果でした。

個人的には、僕自身の言葉や指導が通じるには一定の基準というか、そこまでのステップを超えてきてくれてないと多分理解してもらえないというか伝わらないと思っていて、そういう事をその後に説明はしましたけど、そこまでどうやってレベルアップするのかまでは、ちょっと僕にもよくわからなかったので、とにかく経験して失敗して来い、とだけ助言しました。

ですので、叱る場面って僕としてはあまりないのですが、気が付いたら叱っている事が多いです。
怒ると叱るの区別については、個人的には自分の怒りやネガティブな感情を乗せてしまったらそれは怒るだと思っています。それでは内容は相手に伝わらなくて、伝わるのはこっち側の負の感情だけで、結局こちら側がすっきりして終わるだけで、育成指導としては全く効果がないと思っています。

叱るについては、相手の行動を自分なりに推察した上で、こうしたらいいのに、とか、もっとこうだったら・・・という相手にとって次に活かせるポジティブな内容を客観的にこちら側が見ていて気が付いたことを伝える事だと思っています。

ですので、一連の行為の中でも、ここは良かったけど、ここが・・・という感じになる事が多いですね。

自分をここまで見てくれ、真剣に導いてくれると感じさせてくれるリーダーになら、なるほど人はついていくでしょうし、その教えを守り成長していくことでしょう。

じんぶん堂

そうそう、ここが重要で、ちゃんと見ていないと叱れないんですよね。
叱る際に言外に見てるんだぜ、と伝わる事も凄く重要ですよね。

もともとは職員を褒める為に現場での動きとかを常に意識的に見るようにしてきましたが、それが叱る際にも生きた感じです。

介護現場で働く職員は、サービスの質そのものですから、管理者としてリーダーとして、その品質を常にとはいいませんが、定期的にチェックして管理しておく必要は絶対にあると思います。
僕は、情報は生な情報が一番いいと思っているので、職員からの報告とかも参考にはしますが、自分自身で見て感じた情報を一番信じられると思っています。

いやはや、やはり想いをしっかりと伝えていく事が大事なんだなぁと思いました。

やはり先人の言葉は学びが多いですね。


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