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認知症の方が繰り返し撫でたりする行動について調べてみました。

今日でクラスター発生施設への応援派遣も最終日でした。

職員さんも復帰が続いており、新たな感染拡大もないみたいで近日中に収束宣言が出せるとか出せないとか、そういう状況のようで微力ながらお手伝いに入っていた身としてもうれしい限りです。

ようやく入居者さんの顔と名前が一致してきて性格や行動なども把握できるようになってきた頃なので、ほんとうに名残惜しいです。

コロナ禍の上でクラスターが発生していて各ユニットが隔離状態の中で、当然認知症の入居者さんは状況を理解できないわけですから、帰る!と言って隔離しているスクリーン等を押しのけて出ていこうとしたり、娘が迎えに来ないの・・・と涙を流されたり、ちょっとちょっと!と常に目に入る誰かを呼び止めていたり大声で呼びかけていたり。

やはりいつもと違う環境で、職員さんの動きや生活のリズムも違っていると思いますし、そういう状況が長く続いてきた事でどうしても落ち着かなくなってしまったりしているんでしょうね。
そういう要求に対して、ほんとうにやる事が多くて大変な中でも親身に訴えを聞いてあげている職員さんも素晴らしいと思いました。

誰も悪くないんですよ、なのにその場のみんなが悲しくて切ない想いになって、やりきれない感じがしました。

そんなこんなの状況の中で、久しぶりにテーブルやベッド柵や布団や毛布を終始撫でたりさすったりしている方にお会いしました。
認知症の重度の方によくある行動かなぁと思っていましたし、僕も以前勤めていた事業所で食事介助中にずっと腕を撫でられたり、見学に行った先ではずっとテーブルの木目を撫でていたり、学生の頃の実習先でもずっと手すりをさすっていたりしている方はおられました。

この行為は何なんだろう、どういう行動で、何か意味があるのかなぁ、と思ってはいたのですが、調べる事もなく過ごしてきました。
あれから何年も経過した今でも、特にこの行為についての見解が示されたという事は聞いたことがなかったので、あらためて調べてみましたが、普通に調べても出てくるのはバリデーションだったり、認知症ケアの際のポイントといった、介護職側のケアの手法として手で触れたりさすったり、という記事ばかりでした。

そこでもうちょっと工夫して検索すると、ある論文にたどり着きました。
2013年頃の研究で、第13回日本赤十字看護学会学術集会で発表された内容のようです。

https://endai.umin.ac.jp/cgi-open-bin/hanyou/parm/jrcsns/pdf_download.cgi?articleid=D00023-00001-10178

研究報告
認知症高齢者の生活世界に関する研究
-行動観察による状態像の分析-
宮地 普子,阿保 順子

日赤看会誌

とくに中等度認知症の進行度においては、BPSDが問題化されることが多く、こうした観点からのケア技術の開発は必要である。しかし、こうした尺度では認知症高齢者が感じている不安・恐怖、混乱の理解に迫ることは難しい。また一方で、認知症を人間の老化の一つのプロセスと捉え、「老い」を理解して彼らの全体像を捉えることが必要であるとの指摘もある。

日赤看会誌

BPSD、僕には周辺症状のほうが馴染が深いんですけど、そういう行為や行動だけを見て対処していてもほとんど何の解決にもならないことが多いですし、そういう事がここで指摘されているような認知症高齢者本人が感じている不安や恐怖、混乱の理解に迫ることができないと、結局はよい対処にならないという事なんだろうと思いますし、なぜそのような行動をするのだろう、してしまうのだろう、と感じてそこに迫りたくなること自体が認知症ケアの面白さだと思いますし、今回の疑問の根本もそこにあります。

また、認知症を老化のプロセスと捉えて、その上で老いとは何かを理解した上で対処していく事についても、非常に重要な視点だと思いました。

研究では、3人の対象者を最大8か月の期間の観察した上で考察されています。

X氏の行動には、一貫して「なぞる」、「つまむ」、「こする」などの自己接触行動の繰り返しがみられていた。

日赤看会誌

僕自身が気になっていた行為がこれですね、自己接触行動とい事がわかりました。しかし、自己接触行動というキーワードで検索してもそれ自体を説明した内容はすぐに見つけられなかったので、特にどうこうというわけではなく、単に自分自身に触れる行動、という感じで理解しておけばよいかな、と思います。

Z氏は、調査当初から会話がかみ合わなかったが文脈が存在しており、相手を前にして自己を呈示するという、少し抽象度を高めたコミュニケーションをとっていた。また、X氏のように言葉による表現がうまくできないが、触れる行為や手をこする行為などで接触を図りながら、他の手段でコミュニケーションをとっていた。また、Y氏においては、リズムのある独り言から次第にハミング音となっても発している声に変化しているが、これらは他者に向けられた発言ではないものの、彼らにとっては自分自身には確実に聞こえており、自己の存在を確認する自己呈示であると言える。

日赤看会誌

会話をしたり言葉を発する事自体が、自分自身の存在を確認しているという事なのでしょう。そうであれば、言葉による表現がうまくできなくなってきたりした場合に、こういう触れる行為や言葉以外のコミュニケーションを活用する事で、自己の存在を確認していた、という事なのかもしれません。
振り返れば、そういう行動をされていた方は、寡黙な方が多かったですし、普通の会話は成立せず、普通には理解しがたいような単語を発言されていた方が多かったと思います。

言葉の意味が失われていく順序は、意味内容から象徴的言葉となり、そして抑揚とリズムへと変化すること、抽象度が上がっていき、語彙が少なくなっていくものと考えられる。我々は、彼らが発している言葉やリズムに注目することが必要であり、同時に、彼ら自身が自己の存在を確認する意味を含んでいる点も彼らをケアする際に認識している必要がある。

日赤看会誌

彼らにとっては自分自身には確実に聞こえており・・・という部分は、ハッとさせられました。

同時に彼ら自身が自己の存在を確認する意味もある・・・確かにそうだし、その視点で見る事は出来ていませんでした。

記憶の問題としてではなく、彼らの実存の問題として考える時、彼らは時間を縦横無尽に行き来していると考えることができる。
そのような時間を生きる対象者は、共通して自己接触行動がみられていた。

認知症高齢者の言葉の意味喪失の過程を考慮し、特徴的な時間感覚の中での生活世界を踏まえた看護介入の方法が検討される必要がある。

過去と現在が混在した世界というか、認知症の重度化によって認知機能が低下し記憶と時間があいまいになっている状態の中で、どうしてもうまく意思疎通ができなくなったり、たとえば否定されたり制限されたり自分の意に沿わない対応をされることで言葉によるコミュニケーションを避けていくようになった結果、さすったりする行動に行き着いてしまうのかも知れませんね。

その上で、この研究でも述べられているように、そういうプロセスを理解したり考慮したりして、その上で専門職としてどのように接していくか、ケアを提供するかを考える必要があると思いました。

そんなわけで、さすったりを繰り返している行為については、中重度の認知症の方であって、言葉や語彙を失う事でうまく言葉によるコミュニケーションが取れなくなってしまい、自分の存在を守るための行動として発現しているのではないか、という感じでした。

たしかにそうだと思えるケースは多いです。
物に触れていたり、介助者に触れている事で自分自身の存在を感じていたり、それ自体がコミュニケーションである可能性があり、その状態自体が本人にとっては安心できる状態なのかもしれませんね。

言葉を扱える事、誰かと会話できることが、自分の存在に関わるような重大な事だとは理解していなかったので大きな学びを得られました。

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