「ラーゲリより愛をこめて」〜人間らしい生き方とは〜

人間らしい生き方ってなんだろうか。

作中、日本人捕虜の方たちは不当な強制労働や人権を無視した扱いに晒される。
こういう場面を見れば
「人間らしい生き方をさせろ!」
と、野次を飛ばすことが出来る。

だが、映画館を後にするとふと頭をよぎる
「今の世の中において人間らしい生き方ってなんだろうか」と。

ほとんどの場合誰かに何かを強制されることもなければ、人権を侵害されることもない。
ならば人間らしい生き方はできているではないかと言われても、答えは分からないとなる。

互いが思いやり、子孫を残し、健やかに生きること

これが私が思いついた人間らしい生き方である。 
だが時代は変わっていく。
それに伴いかつての生き方では生きづらさを感じる部分が多くなる。
されど、変わることの無い大事な、普遍的な要素ももちろんある。

我々は豊かになった。
しんどいこと面倒だったことを楽々できるようになった。
だけどそれと同じくらいしんどいこと面倒なことも新しく生まれたように思う。
かつてに比べれば明らかに今の時代の方が良くなっているのであろう。

しかし、私たちは今を生きている。
過去と比べれば良くなった。
けれど、「だから幸せだろ?」と押し付けられたら素直に頷けないのが正直な所。

過去の生活の過酷さを知ることは出来ても感じることは出来ないから実感が湧かないのだ。
これは私の想像力の問題だろうか。
過去には過去の、今には今を生きる人にしか分からない過酷がある。
その大小は比べることは出来ないと思う。

じゃあ戦時中の過酷と今お前が抱えている過酷を入れ替えてもいいのか?と言われれば拒絶する。

これが矛盾なのかどうなのか私には分からない。

欠点ばかりを探し良い所を見ようとしないバイアスのせいなのか、今の幸せを実感できないでいる。

あの頃に比べればマシ。

この言葉にずっと引っかかている。
私たちは私たちの時代にだけ手を施せばいいのではないか。
もちろんその過程で過去を見て学ぶ必要もあると思う。
特に、何をやって良くて、何をやっては行けないのかの判断は1番大事な過去の使い方だと考える。
だが、過去を今と比べる材料にしてしまってはならない。
なぜなら、環境も人々の考え方も何もかもが異なるからだ。
理科で習った対照実験とは、

1つの条件のみ変更し他条件は一致させるようにする

Wikipedia

ことである。
つまり、過去と今を比べることは条件が異なりすぎているためなんの比較検討にもならない。検討の余地がないのだ。

そこで改めて考える。

今の時代の人間らしい生き方ってなんだろうか。

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