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自身の自信の答え


コンフォートゾーンから出ることをコンフォートゾーンに入れる。

初めて吊り橋を渡る人と吊り橋を何度も渡っている人は、コンフォートゾーンの外にその吊り橋があるか、すでにその中にあるかの違いに過ぎない。

あの人はいつも自信があって、なんでもできるという風にあなたが思う人は、単にあなたよりもコンフォートゾーンが広いだけに過ぎない。誰だって安全だと感じている枠の中でなら自信をもってできる。

そして、コンフォートゾーンが広い人の最大の特徴としては、「コンフォートゾーンの外に出ることがすでにコンフォートゾーンの中にある。」ということだ。

何度も何度も枠の外に出るという経験をしているからこそ、そこには大したリスクがないし、仮に怪我をしたとしてもその怪我は次に生きるということを知っているのだ。

枠の中のことなら自信をもってできる、枠の外に出ることすらが枠の中にあれば、もう無敵だ。どんどん枠が広がっていく、そしてどんどん自信をもってできることが増えていく。

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自信とはなんだろうかとふと疑問に思った。他人との関係性の中で生まれるものなのだろうか。
もしそうであれば自信とは承認欲求と似ているものなのか。

私は年々と自信を失っている。
それは歳を重ねるごとに優越性が無くなって言ったからである。
恐らく環境による影響もあったのだろうがそれにしてもこの見事に秀才からただの人に成り下がっている。
小学生の時は足が速く、サッカーも一番うまかったしモテた。
中学の時はモテはしたが足は周りと大差が無くなりサッカーでは劣等生となった。
高校の時はモテることもなくなり、今までの優越性が全て消え去った。

過去の栄光を語る痛いヤツだと思われても仕方がないだろう。
しかしそれほどまでに

周りの人間よりも上に立つこと」

によって自分の心を保ち発破をかけてきた。
それは今でもあまり変わっていないように思う。
なぜなら、なんの優越性も持たない今の私は自信のなさがあまりにも大きく露呈しているからだ。
そして時々思うのだ
「小学生の頃は楽しかったな、あの頃に戻りたいな」と。

過去に縋るってなきゃ生きていけないような人間にはなりたくない。
だからこそここで、今、ここから変わろうとするのだ。
先の引用文に従い、コンフォートゾーンの外に出ることでさえもコンフォートゾーンの内側の出来事にするために小さなチャレンジを繰り返す。
失敗が次に生かされることを当たり前のことだと思えるように不安の中に飛び込んでみる。

そうやって自分を今この瞬間から変えようとしたやつにしか望む未来は得られないから。


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