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その子の気持ちはわからない。

 夕食の折、母からこんな話を聞いた。
 不登校になってしまった、高校生の女の子の話だ。
 その子は三人姉妹の次女で、三人のうちでは一番勉強ができた。彼女の親は教育熱心であったから、当然、その期待は次女であるその子に寄せられた。ひとの又聞きだから、ほんとうのところ、どんな家庭環境だったのかは想像するしかない。しかし、結果として、その子は不登校になった。
 人付き合いやコミュニケーションが苦手で、友達がほとんどいなかったのだそうだ。
 進学校を中退したその子は、週3日ほど登校のある通信制高校に転入したが、それも長くは続かなかった。今は部屋にこもりきりで、家の外に出ることはなく、深夜に活動して日中は寝るばかりの生活を送っているらしい。
 その子の両親は、多忙だった。教育熱心ではあったものの、娘の状態にかんしては無関心だった。
 親が悪い、とその子の受診した心療内科の先生はきっぱり言った。親の無関心が今の状態を招いたのだ、と。
 カウンセリングの際に、その子が親への思いをぶちまけたらしい。その思いが正しく彼女の両親に伝わっているかどうかは、わからない。わからないけれど、なるたけ正確に伝わっていることを願うばかりだ。
 
「どうしたらいいと思う?」
 母は、私にそう尋ねてきた。
 私は答えあぐねて、いつもより長く白米をかみ続け、飲み込むやすぐに、みそ汁に口をつけた。大根と油揚げのみそ汁。落ち着く味だ。
 自分の子供と同じくらいの年齢の若い女の子が、そうして引きこもっているのが、母には残念に思えるらしい。できることならば何か力になってあげたいと、心の底から思っているようだった。
「だって、17、8の女の子が心を病んでしまって、部屋からも出られないなんて、もったいないよ。若いのに」
 もったいないって、どういうことだよ。
 自分でも驚くほど、胸のうちが波立った。
 若者は親がのぞむように、外に出て有意義な時間を過ごさなきゃいけないのか。
 勉強ができて、友達も多くて、そういう「(若い)今しかできないこと」をつねに追いつづけてなきゃいけないのか。
 もったいない、と思うのだって、勝手な押しつけじゃないのか。
 そういう周囲の人間がもつ無意識(ときには善意のふりをする)の押しつけが、その子を閉じた部屋の中に追いやったんじゃないのか。
「うーん、そうだねえ……」
 静かに茶碗を置いた私は、できるかぎり時間を置いて、ほうれん草のおひたしに箸を伸ばす。
 その間も母は喋り続けている。
 普段であれば母の持論を苦笑いで聞き流すのは父の役目なのだが、あいにくと今日は、母の身体が私のほうに向いている。
 父は発泡酒をうまそうに飲んで、ときおりテレビからこちらに視線を投げる。泰然自若? いや、何事にも関心が薄いだけだ。けれども、そこが父の良さでもある。長所と短所は、往々にして表裏一体なのだということを、私はほかでもない両親から学んできた。
「――何事にもやる気がなく、朝眠くなって夜起きてしまうっていうのは、セロトニンっていうホルモンの量が減ってしまっているときは仕方のないこと。気合でどうこうなるものじゃなくて――」「――なにより無関心なのが、いちばん良くない。親が見守っててあげなきゃ。それに――」「――娘がなにが好きかも、わかってないんだと思う。だからどうしてあげたらいいかわからないんだよ――」
 おしゃべりな母を、どうか悪く思わないで欲しい。
 その子の力になってあげたいと思う気持ちは、間違いない。できることなら、なんでもするだろう。母はそういう人だ。真剣なのだ。でも母は、その子の親ではない。
「親としてもどうしたらいいかわからないから、何もできないんだって」
 と母はいう。そしてその子と同じ年頃である私に訊く。
「どうしたらいいと思う?」

 私にはわからない。
 私はその子ではないから。 
 親からの過度の期待と無関心が、ときにはこころを閉ざして引きこもってしまうほど、人を傷つけるものだというのは、なんとなく理解できる。
 でも、その子の気持ちはわからない。 
 気安くわかってはいけないんだとも、思う。だから、わからないなりに想像してみて、もし、自分と同世代か少し若いくらいの人が、なんににも気力が湧かず、やることなすことすべてがくだらなく思えて、毎日がつまらないと感じているんだとしたら、それは、だまって拳を握りしめたくなるくらいに、かなしい。
 幸いにもさまざまなものに恵まれて、毎日が楽しくて仕方がない私には想像することしか(それもほとんど的外れで気楽で浅はかな想像に違いない)できないが、もしその子が自分でもどうしたらいいかわからず、部屋のなかでもがいているんだとしたら、「世の中、見方次第でけっこう楽しいことってあるんだよ」って言ってあげたい。声が届かなくてもいい。聞きたくないのなら、無理に聞くことはない。どうせ20そこそこの苦労を知らぬ若造に大したことは言えないのだ。その子を救うことはできない。肩を貸してあげることも、力になってあげることも、たぶん私にはできないだろう。でも、きっとそれでいいのだ。
 旅行に行ったらいいんじゃないか、だとか、漫画が好きらしいのでそういうイベントに行ってみたらいいんじゃないかとか、母はいろいろと考えている。もちろん、その子の親に向かって無粋なアドバイスなどはしないだろう。何か力になれないか、あれこれと考えているだけだ。
 父は、何か考えているようで何も考えていない、つまりはいつもと変わらない様子で発泡酒を飲んでいる。こうも無口でいられるのも、才能だと思う。
 私は旅行が好きだし、外のイベントに繰り出していくのも好きだ。どちらも楽しい。しかし、風邪を引いたときにはわざわざ行かないだろうし、たとえ元気であっても、疲れるものは疲れる。いきなり外に連れ出して新鮮な空気を吸おうといっても、その子にはきびしいだろう。
 親がその子の好きなものを知って、コミュニケーションをはかろうという案も、大切だとは思うが、賛成はしない。そういうコミュニケーションがとれてこなかったからこそ、いまの状態があるんじゃないか。付け焼き刃の興味は、たぶんもっと深刻に溝を深めてしまう。(ほんとうに素直にその子のことに興味があるなら、とっくにその子はこころを開いているはずだしね)
 じゃあ、どおすりゃいいんだよ、と尋ねられたら、私が思いつくのはくだらないことばかりだ。
 たとえば、スケッチブック(もしくはクロッキー帳、新品のコピー用紙500枚とかでもいい)とペン(できたら本格的なイラストすら描けそうな、0.3mmのシャーペンからコピック、練り消しまでそろえてあげて)を渡してみるなんてのはどうだろう。何も言わなくていい。本格的な絵を書いても、落書きをしても、折り紙にしても、小説を書いたっていい。好きなように使えばいいし、使いたくなきゃ机の上にほっぽっておけばいい。
 その子はアニメや漫画が好きなんだという。
 持論だけれど、アニメ好きにイラスト嫌いはいない。上手い下手はこの際どうでもよくて、要は自分と素直に向き合える時間をつくるのが大切なのだ。

 パソコンを眺めていると、あっという間に時間が過ぎていく。次から次へとコンテンツが変わっていくから、無限に眺められるような気もしてくる。でも、本当は違う。手を変え品を変え暇つぶししても、いつか自分が根本的に飽きていることに気づくだろう。デジタルな世界を流れていくのは、結局は自分の外の世界でしかないから。(最終的に人間がほんとうの意味で興味を持てるのは自分自身にかんしてだけだと思う。極端な話をすれば、究極的に、自分の命が絶たれるかどうかの瀬戸際になって、自分以外に関心を持てる人はそういないはずだ)
 新品のスケッチブックや、クロッキー帳や、コピー用紙には、当然だけれどなにもない。オプションボタンも、ツールも、フォント調節も余白設定も、ない。白紙を前にしてペンを握ったときにこそ、ほんとうの意味で自分と向き合う時間がつくれるのだと私は思う。下手な落書きだって、なんの意味もなさない一本の線だって、誰にも読ませられないポエムだって、こうやって熱くなって書いている誰のためだかもよくわからなってきた散文だって、白紙の上に描いたものはすべて、自分の中から出てきたものだ。

 友達をつくるとか、親と話すだとか、自分の外の世界と交流する活力を得るためには、その練習をするためには、まず自分と向き合う時間が必要なんじゃないだろうか。その時間をつくってあげるために、周囲の人間ができるのは、白紙の束とペンを渡してあげることだけだ。無理に書かせなくったって、手元に白紙の束とペンがあれば、何か書きたくなる時がきっとくる。メモ書きだっていい。そのときのために、あげればいいのだ。高い買い物でもなしに。
 これで、もし、イラストにハマってアナログからデジタルへ、ということになればペンタブや液タブが欲しくなって、そのためにはまとまったお金が必要になって、バイトに出るようになるかもしれない。それが何年先かはわからないし、親の望んだ進路ではないかもしれないけれど、うまくすればイラストの仕事がくるまでになるかもしれないし、画家になってしまうかもしれない。やってみなければわからない。
 紙とペンをあげることは、カッコつけてみるなら、ある種の祈りだ。
 これまでの押しつけとは違って、自発的に、能動的に、その子の中から何かが湧き上がってくるのを信じ、またその出てきたものを分け隔てなく無条件に受け入れようとする覚悟でもある。(何を言っているのか自分でもよくわからなくなってきた)
 うまくいかなくったっていい。何も生み出さなかったとしても、紙とペンをあげたという事実は残る。
 紙とペンを通して、こんなにもその子のことを思いやって、見守っているんだ、ということをわからせる必要もまったくない。むしろ、親側の事情をわかって貰おうとするのでは、苦しかった「押しつけ」の構造を再生産しているのと同じだ。自分と向き合ってもらおう、だとか、イラストレーターに育ててやろう(笑)、だとか、その裏にある策略はなんだっていいのだ。紙とペンを渡せばいい。いや、渡す必要もない。そっと近くに置いておけばいいのだ。夢中になって何かを描けるときがきたら、きっとわかる。わからなくても、立ち直るきっかけになるなら、結果オーライじゃないか。感謝されるために紙とペンをあげているわけではないのだから。
 なにをすればいいかわからないから、なにもしない。それじゃあ、それこそなにも変わらない。
 深く考えずに、思いついたことからやってみればいいのに。
 こうするのが正解、なんてものはないのだろうから。
 
 
 親御さんには、その子を気にかけてあげてはほしいけれど、気にしてはあげないでほしい、と願う。親御さんが、その子や自分、世間を気にしてしまったから、きっと関係がこじれたのだ(偉そうに言える立場にないのは重々承知のうえで、思うところがあるのです)。
 書いても書いても書ききれないような大量の白紙と、思わず書いてみたくなるようなペン(個人的には万年筆だともっと気分が出るけれど)をそっと置いておいてあげるくらいの、そうやって気にかけてあげる距離感が、私にはちょうどいいと思えるのだが、実際はどうなのだろう。賛否両論あるに違いない。人によって意見が別れるときは、経験上、たいてい私のほうが浅はかで間違っているのがかなしいところなんだけれども(笑)
 夜に起きて朝に寝るのも、それはそれでいいじゃないか、と私は思う。
 夜に眠れないなら、せっかくだから天体望遠鏡でも買ってきて、冬の星座や月の観察でもしてみたらいい。きっと楽しい。家の中から出たくないのなら、望遠鏡もおすすめだ。自分が見られていないと思い込んでいる人を見るのは、いつだってぞくぞくする。
 最近は少し寒くなってきたが、深夜徘徊も楽しいものだ。とくに眠気をこらえながら、未知の野宿スポットを探して深夜の都会を練り歩いてみるのも、最高に刺激的で楽しい。まあ、その子はまだ高校生だから、夜に出歩く楽しみは補導されないくらいになってからがよさそうだけど。
 ちょっといたずら心を芽生えさせてみて、たとえば手紙をつけた風船を街なかに飛ばしたら、何日後にSNSで自分のところまで戻ってくるだろうか、捨てメールアドレスを書いておいたとして、どんな文面だったら返信がくるだろうか、なんて想像するだけでにやりと笑ってしまいそうになる。楽しいことは、楽しくなりそうな妄想のタネは、あんがいと身の回りに溢れているもんだ。
 そういったささやかな楽しみのタネのようなものを見つけられたら、自分が口下手だろうが、容姿が優れていなかろうが、気の合う友達にまだ出会えていなかろうが、少しは毎日が刺激的に感じられるようになるはず……なんて、甘く都合のいい絵空事を考えてしまうのは、私がその子と同じくらいに、心を病むほど苦しみ悩んだことがないから、なのだろうか。
 そういわれたら、もちろん反論はできない。
 でも、その子の毎日が少しでも楽しくなればいい、と思っているのはほんとうだ。同じ苦しみなんてそもそもないのだ。同じ苦しみを知らなくたって、見ず知らずの苦しんでいるひとが少しでも良くなるよう、想像力を働かせるのは、悪いことじゃないはずだ。そう信じている。
 きっとこれからも、その子との接点はなく、紙とペンをあげたらいいんじゃない? という母への返答も、誰のもとにも届かないまま、ある冬の日の夕飯の話題のひとつとして、どこかへ行ってしまうのだろう。
 
 長々と書いたが、結論はない。
 ただ、不登校になってしまったその子がいることと、真剣に力になろうと考えている母と、食卓に話を聞いているんだかいないんだかわからない父がいたことと、未熟ながらもあれこれ考えた自分がいたことを、忘れてしまいたくはない。
 だからここへ、こうして記録しておく。