見出し画像

あまりにもちっぽけで、果てしなく寛容な私とあなたのための「新・今生論」


ー「変わりゆく時代、置き去りになる心」ー

今どんな気持ちですか?

私はどんな気持ちだろう。

生きていく上で身体的な健康と共に置き去りにすることが出来ない
「心」の在り方。
自分の中をクリアにした時、自分の中に残る感覚はどんなものか。
感じ取ることができますか?

タイトルにある今生論は、
昔からこの国に深く根付いている「根性論」という言葉から
ヒントを得ています。

あの頃、あの時代、「根性があれば」何とでもなる、どうにかなる
と言われた事も今という時代を生きる私たちにとって
それだけでは解消しきれない問題があるのではないでしょうか。

昔の当たり前が、学校、会社、子育て、社会
様々な場面において通用しなくなりつつある時です。
変換期とも言える時代が今、着実に始まっています。

そんな変わり始めた時代を生きる上で、私自身も
これを読んでいるあなたにも決して欠かせない事があります。

1人でも多くの人にこの意味を今一度考えて欲しいので
あえて先に答えを書きたいと思います。
それはとてもシンプルな言葉です。

この今という時代を共に生きる
私や、あなた、そしてどこかの誰かにも伝えたいことそれは

「今を生きる」という事です。

私たち人間は自分自身なんだかあまりにも
ちっぽけな存在のように感じることがあります。
事実ちっぽけな存在なのです。

それでいて果てしなく寛容な宇宙です。

宇宙というとなんとなくスピリチュアルだと感じる人もいるかもしれませんが
私はどちらかというとそういうものよりは
科学よりのタイプであることを先にお伝えしておきたいと思います。

宇宙とは哲学でいう「秩序ある統一体と考えられる世界」です。
寛容であるという意味は
実はどのようにでも受け入れることができる寛い心があるということです。

私もあなたも他の誰かも
その存在は果てしなく寛容な宇宙のような存在でもあるのです。

まるで逆の性質を並べていますが
どちらもが私たち人間を表す素材だと思います。

ちっぽけでありながら果てしなく寛容な宇宙である私達が
「人」としての素材を最大限に認識しつつ
これからを生きていくために必要な事。

それが「今を生きる」ことです。

過去にこの国を成り立たせる上で絶対的であった「根性論」という言葉ではなく
今、この時代に相応しい「今生論」として伝えていきたいのです。

「新しいコンジョウロン、それが新・今生論」です。

ーリアリティある「自分との向き合い方」ー

過去のトラウマで推し潰されそう、そう感じる事はありませんか?
未来が不安でたまらない、そんな時はありませんか?

きっと多かれ少なかれ誰もがトラウマや不安を抱えながら
生きているのではないでしょうか。
それがうんと少なくて気に留めるまでもないという方は
それで良いのだと思います。

しかしそれによってたびたび心を苛まれるような人がいるのならば、
やはりその状態は苦しいものです。

苦しみの度合いはお互い簡単には計り知れませんが、
辛く苦しいものに囚われ続けている人がいるのならば、
心が締め付けられるような思いがしますし、
私がこうして自分自身の言葉として伝えたいことを書くことで
少しでも何か緩んで気持ちが楽になる
きっかけになれないだろうかと考えました。

私自身が抱えてきた不安とトラウマの度合いを表現するのならば
「自分が何のために生きているのか、自分は何者なのか、
そしてなぜこんなに苦しいのか、消えてしまいたい」というようなことを
幼少期から長く思っていた。
そのような具合でした。

表面的には明るく振る舞うこともできたし、強気であることもできました。
けれどずっと長い間そんなことを思いながら生きていました。

というか、そのように生きていたことに気付いたのは
幼少期でも青年期でもなく
おおよそ年を重ねた中年期に入ってからです。

そのトラウマの苦しみの度合いが他者と比べたときに高いものなのか
低いものであるのか正直それは分かりません。
恐らく他者と比較して表せるものではないのだと思います。
皆さんの苦しみが私にわかるわけがないように
私の苦しみの度合いを何かで測って示すことは難しいのです。

それでも私も苦しみや悲しみ、そういう感情からくる
トラウマにとらわれ生きてきて、
今はこうして誰かに伝われば良いと思い、文章を書いています。

この文章を書いている。
つまり私は今、長い間の苦しみ、悩み、迷いそしてトラウマや不安からは
おおよそ解放された状態である、と自分で認識しています。

その「おおよそ解放された状態」に至るには
自分が生きる苦しさの根源を知ることが出来なければ
それを解消することは出来ません。

「インナーチャイルド」「ウニヒピリ」など、
幼少期の辛い体験やその頃の自分を認め、
言葉をかけては癒すことで新たに自分を自分で認め直し生きていく
という本なども数多く出ています。
私もそういう本も読みましたし、読もうとしては嫌気がさしてしまい
読むことを中断した本もありました。

なぜそうのような拒否感が自分の中に生まれたのか…
今振り返れば、恐らくそれらの本にある行為が「苦痛」を伴う作業
だったからではないかと分析しています。

そして「あなたは苦しかったんですね」
そういう言葉に救われはしませんでした。

そのやり方を否定したいわけではないのですが
私にはどこまでもしっくり来なかった、というわけです。

それで救われている人がいれば、それはそれでとても良いことです。

でも私が伝えたいのはそういう考え方とは違うものです。

「過去は過去のままで良い。」
それが行き着いた答えでした。

過去を癒すことも、過去の自分を認めることも
見たくない思い出したくもない過去と向き合うことも
しなくて良いと気付かされたことは大きな衝撃でした。
私がその苦しみからおおよそ解放されることになったきっかけは
「そのものを過去のもの」として手放して良い、
というとてもシンプルな考えでした。

トラウマのない人には分からないか、
もしくは当たり前のように感じるこの作業が出来ずに
ずっと長い間引き連れて来たのです。

私自身がこれを知るきっかけとなったのは
私と、とある企業とが打ち合わせを続ける中で
その企業の社長から勧められた
日本曹洞宗の開祖と言われている「道元禅師」の本との出会いでした。
禅宗である曹洞宗ですが、道元禅師は言葉で仏道を説かれています。

実は苦しみの最中、仏教に救いを求め本を読んでいたこともありますが
これもまた腑に落ちなかったのです。

念仏を唱えれば天国へ行けるだなんて。
現実逃避しているだけではないか。
お経を唱えることで今の苦しみから解放されるのか。
仏とは人とは宇宙とはなんなのか。
その行為の意味、関係性の複雑さに非常に戸惑いました。
仏教もまた浅はかな私にとって救いにはならない、と感じたのです。

これは仏の世界の何たるかを知らぬ凡夫の愚かな発言だと流して頂きたいです。
恐らくそのように簡単に言葉にして表現できる世界ではないはずです。

また、さらに言えば曹洞宗は禅宗です。
禅というと「じっと耐える」というイメージが強かったため
避けて通りたかった宗派でした。

そういう事ひとつとっても、
とにかく自分をこれ以上「苦しい」という感情に晒したくなかったのです。
だから前例にある「過去を見つめ、自分を癒す旅に出ましょう」
と言葉をかけられても、辛かった頃の私になんて
全く会いたくなかったわけです。

それが不思議な事に道元禅師の説くその考え方は、
苦しみ迷い悩み続けトラウマだらけだった私に
新しい生き方を見つけるきっかけをくれたのです。

だからこそ私もこの社会、この国の中で迷い悩む無数の人のうちの
ほんのわずかにでも良いから伝えていきたいと
どこかに解決の糸口が見つかるかもしれないと望みをもって書いているのです。

道元の本を読める人はそれも良いと思います。

ですが私はここでその考え方を「新・今生論」として
今を生きている人たちと共に生活の中にあるリアリティをもって
問題解決のきっかけを探していけたらと考えています。

ー未来への「問い」ー

老後問題、少子化社会、巷のニュースでは
この国の政府がどれほど「優れていないか」を叩き上げています。

様々な場面において不安を煽る、そんな社会風潮もあると感じます。
だから不安になる人の気持ち、他人事ではありません。よく分かります。

では冒頭の問いと重ねて考えてみましょう。

「未来は一体、どうなるのでしょう」

その答え=「わかりません」

未来は分からないのです。

過去が変えられないことと同じく
未来もその時が来なければ結果論としては何も分からないのです。

それが今生論に基づく、私の「未来への考え方」です。

「未来」は「ただの未来」でしかありません。

さて、そんな「分からない」未来ではありますが
次の問いは「あなたは未来を思い描きますか?」ということ。

私の場合は長らく過去に囚われてきたタイプだと分析しています。
故に未来への不安も量増しされていました。

現在の私はどうかといえば漠然と未来を思い描いています。

私には子供が3人います。
そして共に生きている夫がいます。
家族と過ごす中で少なからず未来を思い描く事があります。

ところが具体的かどうか、と言われれば「NO」です。

今「未来」を具体的に操ることはできません。
更には確信を得る事のできない未来に気を取られていては
「今」生きる事も出来ません。

現在我が家には14歳、10歳、3歳の子供がいます。
子供達が大きくなり学費が必要になるだとか
そういう事も思うのですが…
その辺どう考えているかというとその時に必要な事に対して
できる範囲でやろうというのが私たち夫婦の考え方です。

それも「今」を生きるというところに関係しているのですが
今からあまり先のことばかり心配して過ごすのもどうか、
と結構本気で思っています。

我が家の子供たち上の2人はホームスクーリング
という形態をとっており学校へ行っていません。
まだ義務教育の範囲にあるので学校から必要とされる場合は
面談に行ったり必要な提出物を提出する、
くらいの事はありますがそれ以外は
全て自己判断、自己責任で生活をしています。

2人とも年齢相応の勉強というものをしていません。
上の子は将来を見据えて適当に自分のペースで勉強したりもしているようです。
2番目の子供は2年生の終わりにホームスクーリングへ舵を切った為
勉強は全くしていません。

ここでいう「勉強をしていない」という事は、
学校教育に当てはめた場合です。

実際のところ我が家の子供たちは自らの力で学びを得ている
という状態です。
自ら課題を見つけますし、その答えを探そうともします。
彼らの先生はもっぱら「本」であったりもします。

こんな子供達の未来、今の社会という基準に準えたろころで
正直考えてもわかりません。

というか…学校へ行っている子の未来だって
「分からない」と思いませんか?

例えば、今私自身こうして文章を書くことを楽しみとして生きているのですが
子供の頃、作文が絶望的に嫌いでした。
こういうところは子供に対する教育のあり方に
少々問題があるのではないかと思いますが、
子供の頃この作業が苦痛で仕方なかったことは紛れもない事実です。

それが数十年後、こうなっているわけです。

他にも例はあります。
私は二度の結婚をしました。
一度目で2人出産。
二度目で1人出産
今は母親としても役割を果たしていますが
そもそも私は子供が大の苦手で、出来るのならば関わりたくないし
産み育てるなんて絶対無理と思っていました。

それが今では学校へ行かせることもなく
わざわざ自宅に置いて子育ちを見守っているのです。

公共機関である学校へ預けておけば
子供達は与えられた世界で保障される最低限の学力を身につけたり
限られた狭い地域の中とはいえ友達という存在と出会うこともあります。

何より親である私自身もっと自分の時間を作ることもできるはずなのに
今私は子供という存在の育ちについて大いなる可能性を感じていたり
教育のあり方について大きな疑問を抱いています。

結婚だって別れると思ってする人、あまりいませんよね。
私も例に漏れずそうでした。
随分と早い段階で「無理だろうな」とは思っていましたが…
みんなそういうもんでしょう、と諦めたようでありながら
諦めきれない潜在意識の先で
素晴らしい人と出会い、結婚しました。

女は面倒臭いから、絶対男の子!と言っていたのに
今や末っ子の娘にメロメロです。
あぁ、女の子がいて本当に良かった!
どの口が言うのか、状態です。

軽く私の人生に触れつつ
皆さんにも問い掛けたいことは
こういう経験ありませんか?ということです。

一つや二つあるのではないでしょうか。

やっぱりどこまでいっても未来は分からないのです。

分からないと不安でしょうか?

そうではないのです。

分からないからこそ「今」を誠実に生きる事こそが
私たちが未来へ向かってできる唯一の事ではないでしょうか?

未来という神の領域に踏み込んで
右往左往していては、今、大切なことは見えてきません。

大切にしたいことが見えているのに、そういうところに足を踏み入れて
ハマってしまっているのなら自力でその沼から這い上がりましょう。

現実の沼は簡単にあなたの足を引き抜かせやしません。
自然には驚かされることが多いものです。
素人ならば田んぼの泥にだって埋もれたら最後、
後ろか前にぶっ倒れるのみです。

ところが精神の沼という場所は実は自分の意思で抜けることができるのです。

それが何度も言う「今を生きる」という行為なのです。

どうせ分からないなら、今、自分のやりたいことを
夢中になれることをひたすらやる、そしてその見えない私自身の未来に対して
真剣に歩みを進めるという選択肢があっても良いのでは無いでしょうか?

だから例えば、先ほどご紹介した我が家の可愛い3人の子供達の未来。
親として私たち夫婦は何も心配していません。
目の前の子供たちはとても元気で、何だか日々充実しています。
子供に対してそれ以上に求めるものは何もないし、
そもそも子供達の未来のことは子供達に任せています。

そして私たち夫婦も「親として真剣に」
「今を生きている子供達の姿に目を向けて」
今この時の子供達の学びについて考えました。

私たち夫婦も子供自身も未来に対して
「今できる最善に近い状態を生きる」ように心がけています。

その甲斐あってか彼ら自身も現時点で
闇雲に未来への不安を抱かずに育っています。

では夫婦で未来に心配事などがあるか、問われれば、こちらもほぼ考えません。

夫は30代後半で私は40代です。
老後問題について話し合ったこともあります。

「投資挑戦」の話も出ました。

でも、分からない未来へのアプローチは
もちろんお金が解決してくれることもあるでしょうが
お金ばかりが解決の糸口とは思えません。
そこで我が家では
今は目的に応じて、楽しく生きる為に
働いて得たお金を使う事にしています。

ちなみに私たち夫婦が老後にしたいことと言えば…
想像してもさほどお金がかかるようなことはありません。

取らぬ狸の皮算用というか…ある前提で考えるより
無いなら無いなりにその時を暮らすしかありません。

むしろ今は未来を案じることではなくて
「未来のために」と貯めたお金をどんどん使って投資しています。

何に投資しているのかというと「家族の旅」です。

この1年で巡った場所は重複も数えれば
20府県ほどになります。
夫の休みを組み合わせながら家族で様々な場所へ旅しています。
私と子供たちだけで出かけることもあります。

最低限残しておきたいところまでは使って
ホームスクリーングをしているからこそある自由を存分に活かし
子供達と一緒に旅をしています。
行ってみたい場所に行く。
観たい景色を見る。
会いたい人に会う。

今しかできない経験、体験を
後回しにしないことはとても大事だと考えています。

私たちはつい「未来」を思い描く生き物です。
しかし約束された未来など、どこにもない、と思っています。
悲しいけれど、明日が来ないそんな時もあるのです。
明日もこの体が動いてくれて
明日も美しい景色に心震わすことが出来るのかは
誰にも分かりません。

だから私は家族と共に今、色々な場所へ出かけます。
減ってきたお金をみると「ありゃ!」となります。
でもこの経験と体験に使ったお金は何一つ無駄ではありません。
時間も命も同じです。
そこに費やしたことに無駄はない、とひたすら満足しています。

これが素晴らしい!と思えるところにお金を使い
喜びと学びを得ています。
我が家の投資の形です。

未来を考えるのならば、やはりこれが答えなのです。

「今」を生きる。

もう、聞き飽きてきましたね。

でも「今を生きる方法」って多岐に渡るんだなと私自身気付かされます。

最終的には全ての行為が精神面に繋がってくるのですが
喜びや学びを得る事、真剣に考えること
行動に移すこと、例えば食事などもそうです。
今、何を選択するのか、それこそが思い描く未来への投資の形です。

どんな時も
どんな時も、今、この一瞬を生きる。

ただそれだけです。

ー過去への「執着」ー

目を瞑れば心配事や明日の予定、やり残した仕事
そんなことが次から次へと頭をよぎり
気づけば眠気が消えてしまい、夜な夜なスマホの上に次から次へと現れる
涎が出そうな誰かの世界に没頭してしまう、なんてこと…ありませんか?

とは、聞きません。
あります、あるんです。自白します。

どんな時も
どんな時も、今、この一瞬を生きる、と言った私も
もちろん不完全なんです。

でもそんなときどう感じますか?
「何も感じない」そういう人がいるのなら、
もしかしたらそれはある意味正解に近いのかもしれません。
(感じないのはそれもちょっと怖いとも思いますが…)

もし「後悔する」「自分だめだな」「時間無駄にした」と思うのなら、
そういう人に伝えたいことは、
後になって
「そういう時間を過ごしたことについて自分を責める時間を取らないで」
ということです。

なぜならその時間はもう過ぎ去ったことだからです。

そんな都合の良い考えでは、いけませんか?
「そうしてしまった自分」は「これも過去」と捉えましょう。

もう過去は変えられないし、そうなると変えようとする必要もありません。

ということは自分の中にある問題点とだけフラットに向きうのです。
問題の重さや解決策とだけ向き合った時、
その事実と向き合えば実際のところ大した問題ではない場合もあります。

このように認識してしまえば、心持ちは遥かに楽になるのではないでしょうか。

そしてそうある為にもう一つ、大切なことがあります。

ここまで「今を生きる」としつこく言い続けてきた私が、
そうではない言葉として伝えたい事があります。

それは現代人が抱える「最悪の思考癖」です。

先ほどのスマホの例えを考えた時でもそうなのですが

一体その行為が他の誰に迷惑をかけたのでしょうか?
どこまでも自意識の問題だと思うのです。
あなたはそれほどまでに悪いことしたのでしょうか?

こうあるべき、と言う論調に塗れて生きてきた私たちは
「理想とされるモデル」から外れたとき、
それを恥じ、
それが自分の価値を落とすと思いがちです。

「理想のモデル」とはあくまで誰かが作ったイメージに過ぎません。

それを不特定多数の人が支持するからと言って
自分に当てはまるとは限りません。

例えば、一定の判断基準の中で優等生か劣等生
として仕分けられる事がありますが
その判断基準が変わった時、立場は一転します。

価値観というものはそれくらい、極端な側面を持ち合わせているのです。

だから理想のモデルはあくまで「誰かにとっての理想のモデル」なのです。
そうでない自分を責めすぎる「最悪の思考癖」からの脱却が必要です。

だからこうして文を書いている私の価値観も私の理想のモデルです。
あなたの理想のモデルは全然違うかもしれないし、
私もあなたもその理想モデルはいつでも変わるかもしれません。

だから「他人が作った理想モデル」に自分をはめこみ
責めることはしなくて良いのです。

それに、悔やむ気持ちがあると言うことは自分で痛いほど分かっているのです。
それ以上は必要でしょうか?
過ぎ去ってしまった過去に対する評価くらいは
置いてきても良いのでは無いでしょうか?

「誰かの理想モデル」にハマらなかったことも気にせず
自分にとっての問題点とだけ冷静に向き合うことが必要だと思うのです。

もちろんまた、「ダメ」とされるモデルパターンを
選ぶ自分がいるかもしれません。
それはそれで別に良いではありませんか。

先ほども言いました。
あなたはそんなにも誰かに迷惑をかけるような悪事を働いたのでしょうか。

答えは「NO」です。

「私こそが私の命を生きている」というのに、
自らがこれ以上に自らを責める必要がどこにあるのですか?

自分と心地よく付き合えば良いのです。

もちろん倫理的に許されない悪事を働くことは
簡単に許されることではありませんが
今は、一定のモラルに則った「一般論」をベースにお話ししましょう。

何度も繰り返しますが、過去は過去です。

あなたは過去に戻ることが出来るのでしょうか。

戻る為にはタイムマシーンが必要ですが
では、タイムマシーンを使ってなにをするのですか?

大恥をかいた過去を撤回するためにやり直しますか?
若気の至りの数々を精算すべく、ありとあらゆる恥をかき消しにまわりますか?
スマホに時間を割いた情けない自分のスマホを取り上げに戻りますか?

でも、本当にそんなことにわざわざタイムマシーンを使いますか?

本気で過去に戻りたいと思う時
人は自分の心のいたたまれ無さを解消する為ではなく
その後に起きた後悔を生まない為の選択を考えるのではないでしょうか?

自らの行動の行く末を見て初めて本気で
タイムマシーンを要するのだと思います。

後悔した時、人はやり直したいと心底思うのではないのでしょうか。

つまり一時的にスマホをダラダラ見てしまう自分は後悔に苛まれるほどの状態ではない、
けれど所謂「理想モデル」から外れているので良くない、
かと言ってやはりわざわざタイムマシーンを使うほどの大事ではないのです。

ではタイムマシーンで過去に戻ったとして
その時すべきこととは、一体何だったのか。

答えはひとつ。
もうお分かりの通り

「今」を生きるということ。

今、その時自分が「本当に命を使ってするはずだったこと」を
しなかった事で人は後悔します。

その先には納得できる、満足のいく未来の姿がなかったから。

今を真剣に生きようと、
今を見つめた時、
今、自分が選択する答えがそこにあるのです。

その時真剣に打算なく選んだ答えならば
人はどうしようもなく辛くなるような後悔はしないと思います。

ー「この美しい世界の歩き方」ー

もし例えばあなたが「今、眠ろうとしていた」時。
余計なことが頭を占拠するのだとしたら「今」を生きていません。
今を生きる私は、今を生きるあなたは、「今」は眠いのなら
疲れを感じるのなら、そして眠る時間を得たのなら、体を休める時なのです。
頭の中をクリアにただ瞑った目の瞼の感触だけに全て委ねれば良いのです。

逆に疲れているけれど、今その事について考える必要があると思うのなら
眠ることをやめて、納得いくまで考えてみてはどうでしょうか?

その時のあなたは一体どちらを求めているのか
本当の自分の声にどこまでも忠実に動いてみることを
日々の暮らしの中に少しずつ意識的に取り入れてみてはどうでしょうか。

突然ですが子供って、とても自由です。
彼らの集中力や発想の豊かさには驚かされます。
ぜひ、それくらいのイメージであなたの求めるものを純粋に求めてみて下さい。

そしてどうぞ、あなたではない誰かの純粋なる望みを否定することなく
ただ応援してあげてみて下さい。

情報過多、こうあるべき論など現代社会に蔓延る
様々な悪癖は私たちの生活にも当然のように存在しています。
それが負のループへと私たちを落としていきます。

それは本来自分にとってさほど重要な事ではなかったとしても、
少しずつ私たちの心の中を蝕んでいくのです。

今、あなたにとって、とても大事なこと。
とても大切なこと。
とても大切な人。

目の前にあるどこまでも素直な思い。
それをいつもいつも意識して生きていれば、
未来へ向かうタイムマシーンも
過去へ戻るタイムマシーンもいらないのではないでしょうか?

過去を捨て
未来を求めず
どこまでも「今を生きる」こと、それこそが「新・今生論」

私たちにタイムマシーンは必要ないはずです。
今いる場所をよく見つめ、感じ取り、いつでもそこから歩みを進めるのです。

今こそ自分自身の生きる道を見つめ直し
本来の姿でこの美しい世界を存分に楽しむ時です。

最後に…

私自身まだまだ自己分析の途中ですが
今はこうして自分の言葉で伝えられるようになりました。

最後まで読んで頂けた事がとても嬉しいです。
ありがとうございました。

#創作大賞2023 #エッセイ部門

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?