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夏炉冬扇

雨が好き。なぜなのかは知らない。

十五歳のころから好きだった。雨の降る音で目が覚める朝は心地よいのだ。パラパラと散る小雨はかわいいし、ジャージャー地面を叩く本降りは力強くて勇ましい。そんな日は、母のつくった食パンとスープの朝食をせわしなくかきこんで、歯磨きさえ忘れてカバンをひとつかみ玄関を出るやいなや、スキップを交えながら登校したものだった。当然のことながら、校門へ着くころには髪の毛はびしゃびしゃ、靴もずっくずく。「ああ、やっちゃったあ」と苦笑しながらも、担任の先生が怪訝な表情をするのも構わず、タオルで頭を拭きふき、ぼさぼさのショートヘアを手櫛で整えていた。

晴れた帰り道、友達の郁美と歩いていたときのことだ。中三の話題と言えば、やっぱり受験だ。みんなが流行ったかのように受験、受験、受験と口ずさむ教室に辟易しながらも、しかし現実と向き合わないわけにもいかないので、そっと志望校のことを郁美に訊いた。

『郁美は、三代高校にするの?』

『うん、両親ともそこの出身で、めっちゃ推してくるんだ。正直、私は入れるならどこでもいいし』

『入れるならっていう理由で三代を狙うところ、さすが郁美だねえ。県内随一の進学校じゃない』

『そうでもないよ。やりたいことがあっていくわけじゃない』

『そんなの、私だって同じよ』

夢なんて、目標なんて、自分にとっては雲の上のさらに上の話でしかなかった。きっと先生との面談時間に適当な進路を教えてもらって、そのときの自分にあっていると思えばそれを選ぶだけのことだ。人が敷いたレールの上を歩くのはつまらないかもしれないが、「つまらない」選択肢はすなわち世間一般の多数の人々がすでに行っている生き方だから、代えがたい安心感がある。経験者の少ない異色の道を選んで、人生で失敗するリスクを増やすのはもったいないとさえ思った。仮になりたい職業が見つからずに、専業主婦になったって構わない。まあ、その点については、好きな人ができてお嫁にいくとなれば、という話だ。第一「運命の出逢い」なんて宝くじに当たるより可能性が低いだろうし、スタイル抜群の女の子でもないのだから、結局は一生独り身で終わるんだろうな、と諦めている。

学校指定の紺色カバンを担ぎ直すと、ザザアとにわか雨が降ってきた。郁美は大慌てで、お洒落にセットした髪の毛を守って軒下に駆け込んだが、私といえばむしろ嬉しくなって、手のひらと顔面で冷たい雨を気持ちよく浴びた。

『またやってる~! おかしい!』

お腹を抱えている郁美を無視して、にわか雨が止むまで私はその場でじっと立っていた。彼女の「おかしい」は誹謗中傷の類ではなく、一種の愛情表現であるとわかっているので、まったく気にせずに雨水に身を浸した。濡れる、という行為が心地よい。汚いものを洗い流してくれるようで有難い。蒸し暑い初夏に冷たいものをくれるようで嬉しい。やがて、雨が止んで雲間から光が差しこみ、虹が浮かんでくる空を憎らしく感じたくらいだった。

……。

私は一呼吸おいて、ノートパソコンのキーボードから手を離す。

「姉ちゃん、入るぞ」

せっかく小説を執筆していい気分だったのに、一番の招かれざる客が私の部屋に侵入してきたからである。

「お兄ちゃん、いまはダメ! 『鋭意執筆中』ってドアに貼ってあったでしょ?」

私の制止に聞く耳をもたない兄は、ズボンからワイシャツの裾をだらしなく垂らして、汗で湿っていそうな髪の毛を掻きながらベッドに横たわる。大学を卒業して社会人となった私は、どこへも働きにいかない兄の生き方を危なっかしく感じるとともに、ちょっと羨ましくも思っている。

そうそう、何故彼のほうが兄なのに、私を「姉ちゃん」と呼んだのか、疑問に感じた読者の方もいるだろう。早くその理由を書きたいのだが、後で詳しく説明するので、まず先に兄との会話を進めようと思う。

「ちょっと、私のベッド!」

「いいじゃんか、この尊き兄を少し休ませろ」

「ゆーるーしーまーせーん! 第一、乙女の部屋に遠慮なく入ってくるのもどうかと思いますけどっ」

「入られて困る理由なんかないだろ? 来客がいるわけでもないし。それに、お前の部屋にあるものは全部知っているんだ。隠したって意味ないだろ?」

私は続ける言葉に困った。悔しいけれど、兄の言うことは当たっている。私の部屋に友達が来ることは滅多にない。理由は簡単で、私自身が来客を拒んでいるからだ。昔は近所の友達を頻繁に部屋へ連れ込んでゲームなんかで遊んだものだが、中学三年のときのある出来事がきっかけで、誰も家に呼べなくなってしまった。新社会人となった現在でも、当時を思い出すだけで感情がどうにかなりそうになってしまう。

そして「お前の部屋にあるものは全部知っているんだ」という台詞、これも正しい。腹が立つが、兄は私が買った化粧品や雑誌、文庫、その他あらゆるものを把握している。高校の修学旅行では、親には渡さないでおこうと思って隠していた現地のお菓子を全部食べられた。最近の例では、初春、初任給でこっそり買い物した高額のワイヤレスイヤホンを「面白そうなもの買ったじゃないか。見せてよ」とせがまれて止む無く披露した。私がいない間に部屋へ侵入しているのだろうか、手法はいまだに謎のままだ。もちろん、当然ながら腹は立つ。だが……確かに、腹は立つのだが。

「今度の資格試験、調子はどうだ?」

そう、こういうところがあるから、兄を追い出そうとか嫌いになろうとかまでは、思えない。

私は観念して、鍵付きの引き出しにしまった社会保険労務士のテキストを出した。

「噂どおり、難しい。でも、労務の仕事で必要な知識だから、頑張らなきゃ」

兄は口元を緩めると、ベッドから身を起こした。

「根を詰めすぎるなよ。お前はストイックすぎるんだから」

「余計なお世話」

素直に「ありがとう」と言えればよいのだけれど、なかなか難しい。社労士の資格を取ろうとしていることは両親をふくめ他人に告げていない。両親とは仲があまりよくないし、友達に「資格を取るよ」と公言すれば自慢に聞かれかねないので、誰にも言わずにテキストを買った。そしてその秘密を、いつものことながら兄は完璧に把握している。把握したうえで、私を応援してくれているのも感じる。

そもそも私は――おそらく兄も同じなのかもしれないが――お互いを好きや嫌いの基準で括ることができない関係にあった。単に兄妹だから、という説明だけでは不十分。兄と私は、性別や性格こそ違えど、誕生日は同じなのだ。

私たちは、二卵性双生児なのだ。

さっきまでラフな口調だった兄が、急にバカ丁寧にお願い事をしてきた。

「そうそう、徳田冬扇さん。よかったら、現在進行中で書いている新作を読ませてくれませんか?」

徳田冬扇(とくだ・とうせん)――私の筆名である――として書いた文章を読みたいときだけ、兄は敬語を使ってくる。この筆名も、書いている小説も、両親はもちろん知らないし、友達はごく限られた人にしか教えていない。公募に出しているわけではないので、徳田冬扇の存在を知る者は実に稀有だ。その稀有な一人が、この兄である。しぶしぶ私はうなずくと、プリンターを起動して原稿を印刷した。

「書きかけですけど」

「ノープロブレム!」

兄は日焼けした手のひらで、出力したばかりの温かい原稿を受け取った。




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