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【朗読劇】大観園の糸 前編

主な登場人物
糸(13)……満州国で親類と死別した少女。売春宿に住み込み。
昭一(18)……馬賊になり損ねた青年。
老韓(63)……博奕打ち集団の党首。
李(25)……老韓一味の下っ端。
亭主(44)……糸が住む売春宿の主。
N=ナレーション(語り)

N:かつて、共産党の革命以前の中国ハルピンに、「大観園」と呼ばれる貧民窟がありました。そこでは木賃宿や市場が営まれており、アヘンの密売・窃盗・売春・賭博といったあらゆる悪事が横行していた、といいます。

N:南の正面入口には「大観園」と書かれた門があり、門をくぐると二階建ての木賃宿が立ち並んでいます。二階へと通じる階段は大観園を象徴するもので、階段の下に死体が横たわっていることもしばしばありました。一階には盗んできた品物を売る市場(鬼市)が、木賃宿は売春宿にもなっていました。大観園の外側は壁で囲われていたそうです。

N:現代の清潔な暮らしに慣れきっている人にとっては、これからお話しする物語はあまりにも生々しく猥雑で、気分が悪くなるかもしれません。しかし、こうした空間が出来上がった背景には、山東省を中心とする華北地域から満州国へ出稼ぎにきた人々が落ちぶれ、物乞い・売春・盗みなどをすることでしか生きられなくなった、悲しい原因があるようにも思われます。どうか当時への想像力を働かせて、たしかに過去に生きていた人々に、想いを巡らせてみてください。

○一九四四年七月(夕刻)、大観園の鬼市(盗品即売所)。

[音:駆け足]

N:ボロボロの衣服を着た一人の子どもが、不潔極まりない鬼市(盗品即売所)のなかを走っていた。その子どもは首にさらしを巻いて、すっぽりと素顔を隠していた。子どもは李という名前の若者に追われていた。李が市場で売っていた鍋蓋を盗んだのだった。

N:李は怒り狂い、ぎょろりとした目を三角にして子どもを捕まえようとしていた。これだけ聞けば李は被害者だが、実のところ李自身もこの鍋蓋を別の場所でかっぱらってきたのだから、李と子ども、どちらが悪者かわからない。

李「待て、コラア!」

N:その子どもは、小柄な体躯を活かして俊敏に鬼市をくぐり抜けた。周りの人間も大捕り物を見てはいるが、しかし大体は無関心か、おもしろ半分に見物するだけだ。

[音:強風]

N:突然、強い南風が吹いて、首に巻いたさらしが外れた。道端に横たわるアヘン中毒の男がその子どもの顔を見て、日本人だと気づいてしまった。

中毒の男「日本鬼子!」

[音:小石を投げる]

N:男は、小石を子どもの足めがけて投げた。小石が脛に当たってその子どもは派手に転び、頬と肘をすりむいて流血した。鍋蓋はコロコロ転がって李の足元へ行ってしまった。

子ども(糸)「くそっ!」

N:きつく歯を食い縛り、子どもは走り出した。鍋蓋を売れば、数日分のお金にはなったのだが、諦めるほかない。李は鍋蓋を回収したけれど怒りが収まらず、執拗に追いかけようとした。だが、物好きなアヘン中毒の男が卑猥な言葉と仕草でまとわりついたので勢いを失った。子どもはさらしを顔に巻き直して、必死に遠くへ遠くへ走った。空腹がひどく、ぐう〜と大きな音がお腹から鳴っていた。

〇大観園の木賃宿(夕刻)

〽俺も行くから君も行け
狭い日本にゃ住みあいた
海の彼方にゃ支那がある
支那にゃ四億の民が待つ

N:身体を横たえて「馬賊の歌」を歌っているのは、十八歳の平塚昭一。馬賊の伊達順之助にあこがれて満州に渡ったが、馬賊の頭目と折が合わずに衝突、命からがら逃げ出してきたばかりである。しかし金や食料は満足になく、放浪の末に大観園の木賃宿に迷いこんだ。

昭一「〽俺には父も母もなく生まれ故郷に家もなし……」

N:ふと目を瞑り、眉間に皺を寄せた。故郷の様々な記憶がよみがえった。

○故郷・長野県のとある村(回想)
N:昭一は長野県のとある村の生まれだった。大好きだった父親は泥沼化する日中戦争であっけなく戦死。それからというもの、母親は気が狂ったように天皇万歳を叫び、長女を在郷軍人の跡取り息子に嫁がせ、病弱な長男を部屋に軟禁して御国の恥だと辱めている。

昭一「父さんは能無しの関東軍にこき使われて死んだんや。俺は絶対に軍の犬になんかならん!」

N:親族から軍人になることを期待された昭一は反発した。

昭一「必ず大陸一の馬賊になって、お前らを見返してやるんや!」

N:そう言い残し、父の御霊が眠る大陸へ飛んだ。

○木賃宿(夕刻)
昭一「その成れの果てが、このザマか」

N:昭一は自嘲ぎみに笑いを洩らした。ここは理想とはかけ離れた、狭苦しいオンボロの宿部屋である。

N:右手には、馬賊時代にパクった拳銃が黒く光っている。しかし、残された銃弾はたったの一発だけ。決死の覚悟で馬賊の頭目に弟子入りしたまでは良かったものの、仲間内の喧嘩に巻き込まれて頭目の怒りを買い、危うく殺されかけたので逃走した、という哀れを被った。

N:壁越しに男女が交わる声が響いてくる。隣の部屋には売春婦が住んでいた。ここでは卑猥な口説き文句が筒抜けに聞こえてくるのだ。

昭一「俺もしてみたいけどよ……。なんか違ぇんだよなあ」

N:昭一は虱で痒くなった背中をかきながら立ち上がり、軋んだドアを開けた。昭一の部屋は宿の二階である。入口の廊下は蛆虫やネズミの死骸、パン屑、葉野菜の腐ったものなどでごっちゃになっている。

昭一「くっさ……!」

N:あまりの腐臭に、鼻をつまんで階段を降りた。ぐう〜と腹が鳴っている。ズボンのポケットに手を突っ込んでなけなしの小銭をチャラチャラ遊んでいると、

[音:小銭の落ちる音]

N:ポケットが破れており、隙間から小銭がジャラララとこぼれ落ちた。

昭一「ああ、ああ! 俺の全財産がっ!」

N:昭一は必死に拾い集めた。

○鬼市の界隈

「音:群衆が歩く」

N:小銭二枚を失って、昭一は不貞腐れていた。残った小銭をポケットに戻すわけにもゆかず、両の手のひらを固く握りしめて歩く。筵を敷いて盗品を売る男女たち。道端にはアヘン中毒の女、そろそろ死にかけの初老の男、指を咥えて市場の食べ物を眺めている飢餓の男児。砂埃が舞う不衛生な空気、いたるところで死臭や腐敗臭がたちこめる。

昭一「美味くはなさそうだが……飢え死にするよかマシか」

N:昭一は店番の少年に小銭を一枚差し出し、小さなパン切れと交換した。少年は久しぶりに小銭を見たため一瞬で昭一の手からそれを奪い、狂ったように踊りながら夕陽にかざしたり腕をぶんぶん回したりした。その少年のお腹は飢餓のため膨らんでいた。昭一はパンをかじりながら少年の口を見た。栄養不足で歯が欠けているが、粘着質の歯垢が所々こびりついて汚れている。親の目を盗んで商品のパンを食べている証拠だった。

昭一「どうりで、パンだけが品薄なわけだ」

N:手の中にまだ小銭があると悟られぬよう、自然な動作でポケットに手を突っ込んで歩き出した。しばらく歩いたところで、人通りの少ない裏路地へ出る。コツン、と何かに爪先がぶつかった。

昭一「ん ――?」

N:ところどころ破れた筵が落ちていて、形が不自然に盛り上がっている。

昭一「これは?」

N:昭一は恐る恐る近づき、驚きで瞳を見開く。筵には微動だにしない子どもが包まっていた。

昭一「南無阿弥陀仏……」

N:不幸な行き倒れだと思い、律儀に合掌する。
すると突然、

[音:刀で切りつける]

N:筵のなかにいた子どもが飛び上がって、石刃で昭一の腕を切りつけた。

[音:刀で切りつける]2、3回

昭一「何すんだっ!」

N:黒光りする石刃と、俊敏な子どもの攻撃。刃の切っ先が手の甲に触れて軽く流血。痛みで力が抜けた手から小銭がチャラチャラと零れおち、すかさず子どもは小銭を数枚ひっつかんで逃走する。この間、わずかに三秒。

昭一「待てよ!」

N:その子どもは李の鍋蓋を盗んだ張本人だった。李のときと同様、逃げられると思って油断していた。しかし、急場においてはわずかな油断が命取りになる。昭一はチーターのように跳躍し、子どもの上に覆いかぶさった。

昭一「俺の銭かえせ、クソガキ!」

N:昭一の腹の下でもがく子ども。顔を隠すさらしが外れた。

糸「放してよ!」

昭一「え……?」

N:昭一は上から押さえつけた身体が少年にしては柔らかいことに気づいた。声も男のものだとは思えなかった。

昭一「お前……女か?」

N:その子ども、糸(いと)と名付けられた少女は、顔を地面にうずめた。

(後編はこちら

参考:
・佐藤慎一郎『大観園の解剖――漢民族社会実態調査――』
(原書房、初版1941年・復刻1982年)
・中生勝美「紹介:佐藤慎一郎著『大観園の解剖――漢民族社会実態調査――』」(『アジア経済』43巻10号p95、2002年)
・P14 参考文献
・拓殖大学学友会「馬賊の歌」
https://takushoku-alumni.jp/kasyu/bazokunouta

注)この台本は、令和5年11月15日(水)に北陸満友会の語り部の会で発表した内容を一部改変したものです。
北陸満友会は、北陸地域を中心とした、満州引揚げに関する記憶と記録の継承を目的とする有志の集いです。今年で創立10周年を迎えました。

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