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夏炉冬扇 #9

*第8話はこちらから

死ぬ。絶対に今日こそは死んでやる。

ずぶ濡れのコートとハンドバッグを玄関に投げ捨てたあたしは、ぐちゃぐちゃな頭髪をかきむしって部屋へ飛び込んだ。

またひとつ余計な罪を犯してしまった。私の存在が赦せない。傷つけたい。壊したい。何もかも否定して、ぐちゃぐちゃにしてしまいたい。

ささくれだった感情にほだされた私は、かけっぱなしのラジオをガチャンと切り、ミニテーブルの上から床にはたき落とした。

それが合図となって、理性のストッパーがパツンと外れた。

スマホを強く握りしめ、それが災いの元凶であるかのように冷えた壁にぶん投げる。がちゃんと短い呻き声を出して沈黙する憐れなスマホ。下卑た微笑が唇から漏れてくる。ああやばい、自分でも怖いんだけど、強い爽快感。苦しさから逃れたくて、身の回りのものを破壊しよう。こんな感性、情けないよな。情けないのは分かってるんだ。それでも、黒々とした嫌悪感が胸のなかで圧縮と膨張を繰り返す。涙にならない熱が目尻に溜まって、呼吸が浅くなる。

ベット脇の目覚まし時計を見ると、午後四時過ぎを指していた。もうすぐで大嫌いな夜が迫ってくる。どうして時間の浪費ばっかしてんだよ、私。やっぱり、花澤に行かなければ良かった。八つ当たり気味に時計も蹴っ飛ばしてやると、文字盤の透明カバーが美しく割れた。なんて素敵な最期。これで何個目だろう。

時計が壊れようが、部屋がめちゃくちゃになろうが、最早どうでもいいのだ。この世界で私が生きている価値なんて無いのだから。

大量の睡眠薬でオーバードーズをするか、それとも包丁で頸動脈を切るか。

真面目に死に方を選んでいる最中、不思議とあの子の匂いと体温が思い返された。詩碑をじっと見つめていた彼女には、悪いことをしてしまった。彼女の襟を掴んだとき、私の心臓も痛みを覚えた。いや、私の方から襲っておいて「痛みを覚えた」なんて狡い逃げ口上だと思う。でも実際、彼女の放つオーラから懐かしさを感じたのは事実だ。そして、鋭く私を見つめかえす瞳の光も、ぎしりと掴んだ腕のちからも、確かな意志を感じるものだった。毎日を無難に生きている人間では帯びることのない、不思議な魅力がその瞳には在った。そんな彼女を、エゴな理由で襲うなんて、私はクズ以下の存在だ。

あの子にメモを渡したのは、事情を打ち明けようとしたときに花澤文藝図書館のスタッフが近づいたからだ。メモを渡して逃げてきたけれど、首を絞めた相手に連絡しようとする人は万に一つも無いだろう。しかもあれは半ば暗号のようで、文字列の意味を理解しないと連絡さえ取れないようになっている。

つまり、あの子との関係はジ・エンド、なのだ。あの子にとって私は、意味もなく路上で襲いかかる通り魔と同じ。大学にも行けず引きこもっているうちに、とうとう脳がイカれてしまったのだ。救いようのない、社会から必要とされない存在。だからこれは、死んで償うしかない。

こんな人間に育ってしまってごめんなさい。

そして、やっとあなたに逢いに行きます。

人生の最期くらい挨拶しておこうと思い立ち、落としたスマホを拾う。画面に傷が付いたけれど、破壊されてはいなかったようだ。電源を押して、見慣れたSNSの画面を開く。

「彼氏ができました」「息子と映画館に行きました」「明日から新しい職場で頑張ろうと思います」…だめだ、幸福や希望で固めたような投稿では私が惨めになる。誰かの幸福を素直に喜べない、うす汚い精神。いつから、こんな人間になってしまったのだろう。どこで人生を間違えてしまったのだろう。考えても答えは出ないし、今更取り戻せるはずもないのだ。諦めた私は、そのような投稿を見てしまわないよう視線を意図的に操作しながら、新規投稿の画面で「さようなら、世界」と打つ。

打つ、はずだった。

可愛らしいベルをあしらった通知マークに「1」と表示されている。一通のお知らせが届いたということだ。まさかと思い、震える指先でベルをタップする。

【徳田冬扇さんにフォローされました】

新規フォローの通知。SNSを一ヶ月ほど更新していなかったから、通知が届くのは久しぶりだ。新規フォローも最後がいつだったのか忘れるほど前のこと。顔が紅潮し、鼓動が速まる。

とくだ、とうせん。とくだ、とうせん。

その名前を繰り返すうちに、さっきまで自殺を考えていたことなどは隅に追いやられた。その代わりに、淡い記憶が紫陽花の色づく蒸し暑い初夏へと誘われていった。

『短いけど、不思議な詩だね』

隣でしゃがむ女の子。詩碑の前に立つ私。

女の子が、ぼそりと呟く。

『この詩を書いた人、死にたがっていたのかな』

あの記憶が、頭の中を溶けて廻り出す。零れ落ちた汚れを、止まらない心の血液を、受け止めてほしい。誰かの言葉を聴きたい。私の感性に、早く気づいてほしい。

私は即座にフォローを返した。理屈ではなく、本能がそうさせていた。





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