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そして誰も来なくなった File 19

「曾祖母は、元は愛知県の貧しい農家の出身でね。その日の食べ物すら苦労するような、窮屈な生活を送っていたの。もちろん学校に行けないから読み書きもできないし、十五歳になるまで行商の手伝いをして生計を立てていた。そんな彼女の一家に転機が訪れたの。1941年の夏のことよ」

「1941年の夏といえば、まだ日本軍は真珠湾を攻撃していませんね」

「ええ。この夏、一家総出で満州へ渡ったの。当時国民は敗戦色なんて感じていなかったし、貧しさから脱却するための『開拓の夢』が、満州という響きにはあった。いいえ、あったと信じ込まされたと言ったほうが正しいわね。実際、満洲国は関東軍のつくった傀儡国家だった。けれど、当時の多くの人々が豊かな生活を求めて故国を旅立ったのは確かよ。残酷すぎるわよね。

満州での生活が始まり、現地で農地を耕し、商売を行って、日本よりはるかにいい暮らしができるようになった。でも、そんな暮らしは1945年8月9日に一変したの。ソ連が条約を破って満州へ侵攻を始めたのよ」

彼女は生唾を呑み込んでふうと息を吐いた。

「それからの生活は人間のするものじゃなかったと曾祖母は言っていたそうよ。私は祖母の話を又聞きしただけだけど。後で勉強したときに、思わず目を覆ったわ。軍の侵攻による犠牲者はもちろん、略奪や暴行、強姦、疫病、飢餓といったかたちの被害が悲惨なほど大きかった。曾祖母は混乱のなかで両親を病気で亡くし、兄弟姉妹とは引き揚げの途中で離別してしまい、孤児になってしまったの。日本人が日本人として生きられない時代だったから、自らの国籍を隠して息をひそめて暮らしていた。そのときに出逢ったのが、戦後に引き揚げ船の乗組員だったノイ・テーラーだったの。

引き揚げに際して、日米は互いの船を利用した。戦禍で沈没しなかった日本海軍の船と、アメリカのリバティ船などが使われたわけね。テーラーは一兵卒としてリバティ船に乗って旧満州国の人々を迎えにいったとき、曾祖母と出逢った。彼は当時にしては珍しい親日家だったから、日本語を話すことはできたし、日本人に対する興味があったの。すぐ曾祖母を日本人だと見抜いて、若いテーラーは接近した。二人の間に何があったか定かでないけれど、やがて二人は現地で事実上の結婚をして、娘を儲けた」

「ですが、彼がアメリカ人であることがネックになって、周囲の目から白眼視されたのではないですか?」

「その通り。共産党が勝利して中華人民共和国となってからは、ことあるごとに資本主義側の人間が狙われるようになった。日本人の父をもっているだけで地位を剥奪されるような時代もあった。ましてテーラーはアメリカ人。到底、堂々と街を歩けるような生活ではなくなった。だから、二人は1950年ごろに渡米したの。新生活を期待してね」

アメリカに来てからは、テーラーは軍隊を辞めて民間の商社に入った。生活も安定し、娘も大きくなったころ、妻の故郷である中国で混乱が起きた。それが、文化大革命だった。

「曾祖母はこの運動を無視していたわ。とっくに捨てた第二の故郷を憂うることも懐かしむこともなく、ただ受け流していた。でも、周囲がそうさせなかったの。彼女が中国で育ったと知る地元の住民が、こぞって『赤だ』とテーラー一家を迫害した。娘も学校へ行けなくなってしまった」

「どうして迫害を? 赤狩りはは1950年代までの行動だと思っていましたが」

「マッカーシズムの嵐が吹き荒れたのはそのころまでだけど、国内には反共の思想が根強く残っていたの。ちょうど、キューバが反米政権を打ち建てて間もなかったから、なおさら共産主義に対する風当たりが強かったのね」

僕は言葉を失った。ポケットのなかで握った拳の震えが止まらなかった。

「そんなに怒らないで、人なんて残酷なほど単純よ。一度ある色眼鏡で見てしまうと、なかなかそのイメージから抜け出せない。お前は赤か、右か左か、日本人かアメリカ人か。大半の人が、相手を表面的なカテゴリーでくくってまとめて、まるでゴミ回収のように分別していくの」

彼女はタブレット菓子を取り出してポリポリ食べ始めた。

「こうやってお菓子を手軽に食べられるってだけでも贅沢なのよね」

ミントフレーバーを味わうように、ふううと息を吐いて微笑む。その様子は、犯罪を実行したとは思えない優美さを放っていた。

「家族の間でいざこざが起きるまでに時間はかからなかった。テーラーの娘、つまり私の祖母は、わざと父であるテーラーを怒らせて、家を出ると言い出したの。イデオロギーの違う国同士のものが共生することはできないって。もちろん、テーラーや曾祖母は反対した。でも祖母は譲らず、やがて曾祖母も自分の娘に同調するようになって、二人はテーラーを置いて中国へ発ってしまった」

「しかし、あの映像を見る限りでは、テーラーの娘さんは父親と再会したようでしたが」

「そうよ。曾祖母が中国で亡くなったあと、彼は現地の男性と結婚した。それまで男性には自身の過去を打ち明けていなかったのだけど、結婚生活のなかでついにカミングアウトするときが来たのね。それまで父親は戦争で亡くなったと聞かされていた男性は驚いて、彼女に渡米を薦めた。祖母は逡巡の末、すでに米中関係も改善していた時勢とも追い風になって、再び彼女は家族一緒にアメリカへ戻ったの。そこで父娘は再会を果たした」

でもね、と彼女は言葉を濁した。

「再会を喜んだのは束の間で、妻と娘を失ったテーラーは、もはや人ではなくなってしまっていた。酒と金に溺れて、そのうえ他人の秘密を探って悦に浸かるような悪趣味を愉しんでいた。その事実を知った祖母は、再び彼の元を去った。実はあの映像のつづきには、暗いエピローグがついているのよ。テーラーが父娘の再会で映像を終わらせているのは、美しい記憶だけを止めようとしたある種の皮肉と自身への慰謝の念が込められているの」

「なるほど…。では、マーガレットさんはいつ、どこで生まれたのですか?」

「祖母の息子は、テーラーの元を去った後で移住先のシカゴで生まれた。その後、彼は曾祖母が生まれた日本に興味をもち、名古屋の大学へ留学をしたの。そこで交際を始めた女性が、私の母、水谷佐代子よ。結婚すれば女性が男性の姓を名乗るのが当たり前の国で、父は母の名字を残してあげたくて、わざと私の戸籍に母のものを使った。本当にいい父だったわ」

しばらく、彼女は沈黙して、タブレット菓子を食べていた。歯茎で脆く壊れる菓子の粒が鈍い音を立てて、次の言葉をどう伝えようか悩んでいるようだった。

「私は、会ったことのない曾祖母や曾祖父のことを知りたいと思うようになった。引っ越し先のアメリカで教育を受けたけど、アメリカで話を聞くだけでは満足できず、自分で当時の文献や歴史の専門書なんかを漁って調べていた。日本の大学に来れば、引き揚げの研究もできると思って来日したの。そのとき、曾祖父の館が孤島にあると知った。何としても、この館を手に入れて、曾祖父母の過去を知りたかったの。そんなとき、一人の男が、私に接近した…今の上司、諜報機関のメンバーだった男に」

「何のために?」

「それは、知らない。彼もノイ・テーラーの館を欲しがっていた。あそこには想像を絶する価値があるんだと言ったの。人類の歴史がひっくり返るようなものが秘められているんだと。だから、館を管理していたギルバートには消えてもらう必要があったの」

長い彼女の話を聴き終えた今、頭のなかがぐるぐるしていた。

「それが目的なら、何も殺さなくてもいいはずだ。今藤の殺害さえ必要ない。いたずらにギルバートの憎悪を掻き立てて、何がおもしろいんですか!」

「怒らないで、ヤング。ギルバートは、過去の主人の栄光に溺れ、その執事である自分から抜け出せなかった。幾度も退去勧告をしていたけど、聞く耳をもたなかったの」

「だから貴女の上司が、今回の事件を計画した。ギルバートが事件の首謀者であるように見せかけ、事実は黒幕の貴女たちが操っていたんですね。そしてギルバートは貴女たちに抹消されたんだ。彼が真相を知ったら、無事に天国に行けるでしょうか。これが、今朝のネットニュースに挙げられていました」

僕が表示したニュースには、ノイ・テーラーの館が、孤島もろとも大企業が買収したと報道されていた。きっと諜報機関が手を回したに違いなかった。これで、あの館には誰も来なくなってしまった。すべて計画通りになった。

「人類の歴史をひっくり返すような価値、とおっしゃいましたね。ですが、僕に一言だけ言わせてください。人の命と引き換えに手にしたものが、本当に価値あるものだと思っているんですか?」

彼女は何も答えない。いや、答えは知っているはずなのに、言葉にするのを恐れているのかもしれない。彼女は聡明な人だ。僕よりも知識があり、胆も座っている。だが、大切なものが欠如している。その大切なものとは何だろう、と考えようとしたときに、彼女が口を開いた。

「長話に付き合ってもらって悪かったわね。さあ、これからどうする?」

「どうするって、決まっているでしょう。正直に警察へ出頭してください。でなければ、僕の方から通報します」

「ほんと、甘ちゃんよね。若いっていいわ」

「え?」

僕の背中に悪寒が走った。はっと顔を上げると、『ヱルキュール』の店員すべてがいない。店長の姿さえ見当たらない。他の客もいたはずなのに、煙のように消えてしまった。彼女が立ち上がる。

「真実を知った人間を、野放しにすると思う? 私がスイッチひとつ押せば、他人を消して飛鳥くんだけにすることなんて朝飯前なの。上司の機関の力を舐めてもらっちゃ困るわ」

油断した、と悟ったときは遅かった。彼女の腕が僕の首筋にかかる。

「飛鳥くんが取れる選択肢は二つ。一つは、潔く私に殺されること。ああ、力まないで。抵抗したって、もうこのカフェは仲間が囲んでいるから、万が一私の攻撃を交わしても勝ち目はない。そしてもう一つは」

首筋の手のひらが、僕の顎へ、そして頬へと伝っていく。頭がクラクラする魅惑的な香りが鼻腔を刺激する。

「私のものになることよ。あの子のことは忘れて」

全身が硬直して動けない。美里、と呼ぼうとした口も、頬を掴まれているために開いてくれない。息が詰まってきた。思考が異常だと告げてくる。冷房が効いているのに汗が止まらない。紅い唇が、あと数センチのところまで迫ってくる。

「さあ、私のものに…!」

                           (つづく)










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