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そして誰も来なくなった File 6

腕が痺れて痛い。美里は血が滲んだ左手をかばいながら、匍匐前進するかのように壁際を移動した。芋虫のような自分の動きにぞっとして、こんな姿を飛鳥に見せられないと思ってしまった。ずりずり体を引き摺った先に、まだ自由が利く右手を伸ばして一枚の招待状を拾った。

「今藤はじめ…。彼、何者だったのかしら」

今藤は、ブレーカーが落ちてダイニングが真っ暗になったとき、彼と美里との距離は、机二つ分を挟んだほどのわずかな間合いだった。今藤は大声で「非常用電源はどこだ!」と叫んでいた。それにも関わらず、次の瞬間には美里の眼前に倒れてきた。美里は失神しそうになった。何が起きたのか、まったく理解ができなかった。彼が倒れた事実、そして、美里自身が犯人だと疑われる危うい立場に置かれていることを理解したのだった。

「あのときは必死だったけれど…。私の疑いが深くなってしまったかもしれない」

美里が漏らした呟きは、非常口の緑色のランプが差す暗がりに飲み込まれていった。美里は、この暗闇はすべての物を黒色に染めていく力があるに違いないと考えた。試しに右拳を宙に突き上げてみると、何の抵抗もなく黒い空間へ拳は見えなくなった。華奢な腕を見つめながら、彼女は今藤を抱えたときを思い出していた。

どうして彼は、あんなに軽かったのかしら。

中学のときテニス部に所属して鍛えていたとはいっても、大の男を一人で持ち上げられるほど筋力がないと思っていた。それが、ちょっと重めの人形を引き摺る程度の力でテレビ台の奥へ動かせたのが驚きだったのだ。まるで、二人分の力が私に備わったかのように。その途中で、彼のポケットから招待状が落ちたのを見た美里は、少しでも証拠を隠そうと自身のカバンに忍び込ませたのだ。

そのとき、光が見えた。

あの瞬間を思い出すことが難しい。なにせ、光が見えたと思った矢先に頭に鈍痛が走って、意識を取り戻したときには謎の空間に閉じ込められていたのだから。美里は、光の先に待っていたものこそ館の謎を解く鍵だと思っていた。もう一度光を見たかった。その向こうへ行くことができたら、今度は飛鳥も逢えるだろうし、他の招待客にも自身の濡れ衣を晴らせると信じていた。生憎、持ってきたカバンは消えていて、ただ今藤の招待状だけが残っていた。美里を気絶させた犯人が仕組んだに違いないと思った。

それにしても手首が痛い。かすかにレーザーが掠っただけだが、じんじんと鈍い痛みがある。ハンカチを巻いたお陰で出血は収まったようだ。右手にある招待状に描かれた海の写真をそっと撫でてみる。外国の海だろうか。海沿いの町で生まれ育った美里は、ふと実家の海を思い出した。思春期、無性に一人になりたくなったときによく海を見に行った。大小の波が無作為にうごめく光景と、塩辛い風が心地よくて、心が洗われる気がしたのだ。高校のときに飛鳥を誘っておけばよかったと後悔している。大学以上になってしまうと、異性を外出に誘うだけで他者がどんな目で観察し始めるかわかりきっている。性別の違いを意識しないまま交流できる幻の瞬間が高校三年間だった。そんな大切な時期だったのに、ある冬の日、美里は飛鳥の前で、忘れたくても忘れられない言葉を吐いてしまった。

過去の痛みを思い返していたとき、小さな影が横たわる美里の前に近づいてきた。今藤の肩で遊んでいたゴールデンハムスターだった。

「あなたも、ここへ来たの?」

ハムスターは幸運の運び屋なのかもしれないと思った。仰向けの身体を回転してうつ伏せになると、柔らかな毛並みを優しく撫でた。初めての人間に触られたからか、いやいやをするように細かな可愛い動作で美里に抵抗した。

「どうやって来れたのかしら」

改めて暗い部屋の中を見回してみた。レーザーのトラップが守る非常口を除けば、他に出入口はない。考えられるとしたら、ドアの隙間。けれど、レーザーに感知されないまま入れるなんて、どういうわけだろう。それとも、美里が連れてこられたときに一緒に運ばれたのか。

「教えてくれる…わけないよね」

ハムスターにしゃべりかけてから、美里は自分の幼稚さが馬鹿らしくなった。溜息をついていると、ハムスターは踵を返して非常口の方へ走り出した。慌てて美里は腕を伸ばして言った。

「だめ、危ないから」

しかし、ハムスターは美里の言葉を無視して一心に駆けていく。そして、何の問題もないまま非常口の隙間を潜り抜けてしまった。

「どういうこと…」

ハムスターの身体が人間より小さいから、センサーに引っかからないのか。試しにできるだけ出入口に近づいて、今藤の招待状を隙間に目がけて投げてみた。すると、鋭い閃光が走ってたちまち招待状は燃え上がり、黒い塊となって床へ落ちた。

「大きさが関係ない…。どうして」

はっと気がついた美里は自身のポケットに突っ込んでいた招待状を取り出した。彼女のものには海の写真はない。地味な白色の背景に、ただ招待客リストが並んでいるだけ。

佐渡飛鳥の名前があるのを見て、夏休みの予定を放り投げて孤島へ来たのだ。「アルバイトとか彼氏とのデートをほっぽり出して」と飛鳥には説明してしまったが、厳密には違う。確かに、大学に入って同じサークルの男と付き合い始めたのは事実だが、諸事情によりあの男とはもう縁を切っている。

この話も、飛鳥にしてあげなきゃ。何よりも、私が後悔しそう。そのために、早くこの部屋から脱出せねばならない。

眩暈のする頭を揺り動かして、美里は上半身を起こした。一か八か、賭けてみる決意ができた。

美里は、大きく息を吐いて、腕に力を込めた。

                             (つづく)




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