言葉くづし 11―上中ゆずの橋
夏炉は、待っていた。
私を守ってくれる、誰かが来るときを。
私が生きたいと思わせてくれる、何かが起きることを。
小学生の頃、私は寄り道するのが大好きだった。目的地にまっすぐ向かった記憶なんてほとんどない。人通りの少ない裏路地や民家の軒下、開発されていない獣道をわざわざ選んだ。
十年前の夏休み、朝の六時半に目覚めた私は、有り余るエネルギーを開放したくて家を飛び出した。いつものように、整備されていない道をぐんぐん進んで、さながら冒険家きどりで胸を張って歩いた。昨晩からの雨は、その勢力を弱めることなく降り続いていた。
いつもと同じ、ただの長雨。
私はそう思っていた。
だから、分かったときには手遅れだった。この雨が、やがて町全体を浸水するほどの被害を引き起こすことを。
「嘘でしょ……」
鼓膜を揺さぶる轟音とともに、浅野川が川岸を削っていた。通ろうとした橋の上は既に水浸しになって、まるで橋を洗濯するかのように泥水が上から下へと流れていた。
強大な自然を前に、私はあまりにも無力だった。
くらくらと目眩がして、私は橋の手前に立ち竦んだ。今更のように嫌な汗がどっと吹き出て、突風がお気に入りの黄色い傘を攫っていった。
七歳の子どもにとって、この光景そのものが恐怖となりえたのだ。
私は為す術もなく慄えて、自分の身体が確実に雨に犯されていくのを感じていた。生まれて初めて自然の脅威を肌で感じた。川が暴れて、雨が目に刺さった。言葉では言い尽くせない感情に、私は縛られてしまった。
「霧島……?」
遠く聞こえた声に、私は振り返った。そこには同じクラスの少年が、やはりずぶ濡れの格好で立っていた。
「徳田……くん?」
彼が泥水を蹴り上げて駆け寄ってくる。
「何してんだ、霧島! みんな学校に避難してるんだぞ。急げ!」
彼は強引に私の腕を引っ張り、有無を言わさず歩き出した。
「い、いいよ。自分で歩けるよ!」
異性に手を引かれたのは生まれて初めてのことだったので、思わず叫んでしまう。
豪雨におびえていた感情は、すでに頭の中から消えていた。
「霧島を見てたら、ほっとけないんだ。黙って着いてこい」
そうやって手を繋いだまま歩き続ける彼。
「頑固者……!」
私は膨れ面をしたが、ぎゅっと彼の握る手をもう一度握り返した。
後になって分かったことだが、どうやら当時、彼は新しく母親になった女性とうまくいってなかったらしい。大人しく義母に従う生活が辛くて、大雨の降るなか傘も差さずに家を飛び出したという。
避難所に着いた途端、さすがに他人の目を気にしたのか、あっさり手を離してくれた。私の手のひらに、まだ彼の肌が残ってるみたいだった。解放されたことにホッとしている自分と、すこし寂しさを感じた自分とが混ぜこぜになって、心のなかがあったかくて苦しい気持ちで一杯になったのを覚えている。
あれから十年。
徳田冬仁とは、学校で言葉を交わすことも行事などで一緒になることもあったが、不器用な小学生同士のこと、別に特別な出来事なんてないまま時間だけが過ぎていった。同じ高校に入学したことは風の噂で聞いていたが、かたや彼は学年首位の成績を収めつづけ、私は体調なり人間関係なりをこじらせて留年した。
だから、もう二度と交わる機会はないと思っていたのに。
あのときと似たシチュエーションで、まさか彼の双子の妹と出逢うことになるなんて、夢にも思わなかった。
蓋を開けてみれば、彼女も兄に負けず劣らずの頑固者で、エゴの塊で、心に大きな闇を抱えていそうな人間だった。そして、彼女と身体を張って喧嘩するたびに、彼女の肌に触れるたびに、あのときの彼と同じ、あったかくて苦しい感情に苛まれるのだ。
そして今、私にとっていわくつきな双子の兄妹から課された、文化祭の動画制作の件。
「断れるわけ、ないじゃない」
この気持ちは、なんだろう。
小雨の降り止まない夏空を眺めながら、私は冬花から借りたデジカメをいじくって、そんなことを考えていた。
(つづく)
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