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遅い新人研修とフラバ。

送迎に連れて行ってもらえることになった。
入職してすぐに受ける研修だから、本当なら私も入職した時から送迎に付いて行くべきだったが、先輩であるハヤくんが退職することになり、その後色々あって研修どころではなくなってしまったので、後回しになっていた。
「やっとさかきさんも新人研修を受けられるね」
「もう新人とは思えないんだけどね」
口々に投げかけられる冷やかしの声に、つい胸が高鳴った。送迎は初めてではない。以前勤めていた職場でもやってきたし、ここでもハヤくんに何件か連れて行ってもらった。だけど、新人研修が再開されると聞くと、緊張感はやはり違った。

「気をつけて行ってきてください」
申し訳なさそうな声が聴こえた。顔を上げると、介護職員の輪から解放された私に、ハヤくんが寄って来ていた。「わたしのせいで、新人研修が中途半端だったんですから」「そんな、とんでもないこと」
私が手を横に振って否定した。ハヤくんからはもっと重要な研修を受けさせてもらったから。

ハヤくんは私の先輩の相談員で、自らの退職が決まってから、私に一対一で引き継ぎをしてくれた。
ところが、退職まであと数日という時に、この世を去った。
短い間しか一緒にいられなかった私ですら喪失感が大きかったのだから、長年一緒に仕事をして来たハヤくんの仲間たちの悲しみは計り知れない。だけどハヤくんの仲間たちは、自分達のことよりも、同職種の先輩を喪った私のことを案じてくれた。
葬式の後の、私の大号泣を見られてしまったからだと思う。その日、葬儀が終わって事業所へ戻って来た私は、同僚の温かい言葉に気持ちが緩んで、年甲斐も恥ずかしげもなく声を上げて泣いてしまった。
それから、相談員がやらなくてもいい仕事は他の職員がやってくれたり、新人相談員が入職して、少しずつ仕事を覚えてもらうことで、私の残業は減っていった。まだ、毎日のように残業はしているけれど。

ハヤくんは、亡くなってから、私の元にやって来た。
亡くなってから感じていた、胸がつかえたような苦しさが急に解消されて、気持ちが軽くなった。
以来、私は今でもハヤくんからアドバイスを受けながら仕事をしている。

送迎で見る利用者さんの顔は特別だ。
朝一番、家の中から娘に引きずられるようにして姿を現す母親が、車に乗った途端、品の良いご婦人に変わる。
事業所ではほわっとした雰囲気のおじいちゃんが、夕方家に着いた途端に表情が引き締まり、一家の主人に戻る。
背筋が伸びる瞬間だ。
「人ってたくさんの仮面を被って生きているって言いますけど、歳を取ってもまだまだ外せないんですね」
「それが、社会と繋がりがあるっていうことですね」
補助の介護士さんと話していると、うんうん、と運転手さんが大きく頷いている。

「ほんと、送迎に出られて良かったです」

つくづく、私は思ったことを口にした。
介護士さんが、嬉しそうに微笑む。
「私も、さかきさんと、こんなふうにお喋りしたことないから、嬉しいです」
「そうですか?」
介護士さんは、細い目をより細めて私に笑いかけてくれた。
「だって、いつも忙しそうじゃないですか」
「いや、それは仕事に慣れてないからですよ」
またまた〜と介護士さんが手を振る。
「さかきさんって、ハヤさんがいた時はずっと引き継ぎでしたし、今は引き継いだお仕事もたくさんあるでしょう、だから話しかけちゃいけないと思ってました」
「そんなふうに思われてたんですか?」
なかなか話しかけてもらえなかったのには、こんな理由があるとは意外だった。
ハヤくんが亡くなってから、仕事が山積みだったのは事実だが、最近は新人がだいぶ仕事を覚えて来たから、仕事に余裕が持てるようになって来た。送迎に行けるようになったのは、仕事に余裕が出て来たからだ。

事故報告の流れ、イベントの企画、避難訓練、色々な仕事に首を突っ込めるようになったので、気力が続くうちに古いものを捨ててさっさと更新したいと思っている。
最近は感染症予防のフローに手を出している。ずっと前の感染対策マニュアルしかないから、新型コロナウィルスの項目が存在しない。なるべく早く作らないと、とは思って本部に連絡しているが、なかなか返信がなくて進まない。

「私はいつも、忙しそうにしてますね」
しみじみ思う。
「心に余裕がなくて、いつも一人でバタバタやってます。なんか、申し訳ないです」
「いやいや、急に謝るなんて」
介護士さんが、心配そうな表情になった。

三人目の利用者さんが乗り込んだ後、一台の車が目に飛び込んできた。

いけない、と思った時にはもう遅かった。
いやな記憶が蘇るのと同時に、吐き気を催した。
咳き込んだ私は息を止めた。
利用者が乗っている。体調不良の職員を添乗させているのかと言われるのは避けなければいけない。
涙は出たけれど、吐き気を押し返すことはできた。
「オーライ、オーライ」
介護士さんが、後ろを見ながら車を誘導していた。

何ヶ月も、休みのたびにディーラー巡りに付き合って、
私はいつでもくたびれ果てていて、
何回も、新車を契約するかもという恐怖を味わい、
夜中に、頭金が足りないからお金貸して、と言われて、良いよ、と答えるまで寝させてもらえなくて、
借用書は後で書くから、と何度もはぐらかされ、
貸した金額の桁は増え、
義母には「夫婦なんだから、助け合いなさい」「たったこれだけのお金で言い争いになるなんて」と言われ、
そうしてお金は返ってこなかった。

送迎対応の最中に、元夫を思い出して吐きそうになるとは思わなかった。
「さかきさん」
事業所に到着後、トイレで嘔吐して、休憩室に駆け込んだ涙目の私を追いかけて来て、ハヤくんがそっと声を掛けてくれた。
「顔色が悪いですよ」
「ごめんなさい」
それしか言えなかった。
あの時見たのは、元夫が駄々を捏ねて買った車の一つと同じ車種、同じ年式、同じ色だった。
そんなものを見ただけで、自分の体がこんなに拒否反応を示すとは思わなかった。
普段自分が街中で見掛けても、車ですれ違っても、嫌なものを思い出すなぁ、としか思わないのに。

何よりも、仕事中なのに。これでは送迎に出られなくなってしまう。ハヤくんには、主任や他の同僚にも話していないような過去も打ち明けていた。話しやすかったのもあるが、彼になら、話しても笑われない、という安心感があった。
「何があったんですか」
「ちょっと…送迎中に、昔のことを思い出しちゃって」
「昔のこと」
怪訝そうに、ハヤくんが私を見る。
「前の旦那さんですか?」
「同じ車だっただけですから」
「そうですか…」
察したハヤくんが、少し考えて口を開いた。
「さかきさん、今日は帰りの送迎に出るのはよしましょう」
「はい」
「その精神状態では、利用者や他の職員に迷惑をかけるから」
「了承はしますけど、午後にはちゃんと調子戻しますよ」

言ってから思い出した。
「それでも、です。フラバ起こすほどのプライベートを仕事に持ち込んでは、利用者に失礼ですから。今日はよしましょう」
ハヤくんは穏やかそうな見た目より、とても心配性だった。
表のチェックをしてください、と指示する時には、私が取り組みやすいように必ず鉛筆と消しゴム、定規を私の手元に用意してくれた。
押しの強い職員との相談事の時は、自分が前に立って話をして守ってくれた。
私が膝のリハビリを受けていた頃、たまたま私のかかりつけの整形外科を知っている同僚がいて、リハビリの先生がとてもイケメンなんだよね、という話題になった時、私のことを冷ややかに見ていたのと…ホームページにその先生の画像がある、と言った時の、興味ありげにスマホを覗き込んだ時の目…
あれ、まるでハヤくんが、私にヤキモチを焼いているみたいではないか。
「主任には、自分で言ってくださいね」
「はい、分かりました」
様々な感情を心に押し留めたまま、私は素直に返事した。

誰も私の体調不良には気づかないまま、半日が過ぎようもしていた。
普段から、利用者に会って状態を確認したりするのはいつもの流れだし、黙々とパソコンに向かっていたら、基本的に私はいつもと変わらないように思われるだろう。
主任から、エクセルの操作方法を訊ねられれば五回だって六回だって見に行って説明するので、それがルーティンと言われればそれで完結する。
「さかきさん」
「はい」
「パソコン教えてもらいたいんだけど、行を全部同じ幅にしたいときは、どうすればいいのかな」
「今行きますね」
介護士さんと利用者さんの話をしていたら呼ばれたので、若干ウンザリしながらも、主任の元へ行った。
「もうお昼の時間ですね。食欲ありますか?」
「うん…多分」
主任から解放されてようやく戻って来た私に時間を伝えたハヤくんが、心配そうにこちらを見た。
次から次へ、これだけ目まぐるしいと、気も紛れるだろうと思ったが当てが外れた。胃の中は空っぽだが、胸のムカつきは取れない。
「早退したら?」
「嫌です」
「えー」
被せ気味に拒否すると、ハヤくんが眉根を寄せて天井を仰いだ。

運の良いことに、今日のお弁当は少し消化の良いものだった。おにぎりに少しお湯をかけ、レンジをかけて少し蒸らした。
先にヨーグルトを食べたら、少しずつお腹が空いて来た。良かった、とため息をつくと、ガラス越しに屋外を歩くハヤくんと目が合った。
もう、大丈夫です。
ニッコリ微笑んで、合図した。ハヤくんが、ひょこっと頭を下げて返して来た。

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