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もう恋なんてしない。

事業所の鍵がある。

主任、リーダークラスの職員が持っていて、朝晩誰かが解錠、施錠している。
私は平社員だけれど、生活相談員という職種柄、残業が多いから、と主任から手渡された、ハヤくんからのお下がりだ。私はハヤくんの鍵、と呼んでいる。事業所ではなく、ハヤくんから預かっているだけの鍵だと思って持っている。

ハヤくんは、相談員として入職した私に引き継ぎをして、2ヶ月足らずで亡くなった、年下の先輩だ。

ハヤくんが亡くなって、持ち物を確認したハヤくんのお父さんから、これは見覚えのないものだから、そちらのものではありませんか、と返却されたという。
ここ一年、施錠は一番彼の頻度が高かっただろう。
1人残って、残業が多かったから。
それが証拠に、パソコンのファイルには、最終更新日時が、20時台というものがたくさんあった。
彼の命日の数日前の日付、いくつものフォルダにたくさんの20時台。
次の計画書を作成するために新しいタブを作って、計画作成者はわざわざ空欄になっていた。
次の計画を作るのは、自分じゃないと宣言するように。
こうやって、不意打ちのように、彼からのメッセージを受け取ることがある。私はそのたびに胸が苦しくなるのだ。
「またあったの?ハヤが残したファイル」
「はい、用事があって私が早く帰った日です」
なにもそんなに残業しなくても、と主任が顎に手をやって呟いた。
「あいつが残したものは過去のものだからね。今はハヤに教えてもらったことをなぞるのでも良いけど、いずれはさかき流でやっていかないといけないからね」
「はい」
「どんどん、上書きしていってください」
「はい」
はっきり言われて返事はしたものの、上書きしてしまうと、最終更新日時が変わってしまう。ハヤくんの存在を消してしまうような気がして、気が引けた。
主任が人に呼ばれて立ち去った。近くで話を聞いていたハヤくんが、さっきまで主任がいたところに立って、パソコンの画面を覗き込んだ。
「さかきさん、上書きしちゃってください。次に使いやすくするために、新しいタブを作っただけですから」
ハヤくんが私に追い打ちをかける。
少し考えて、私は「名前をつけて保存」を選んだ。
そのファイルだけで良いから、残しておきたかった。
「終了分」と書かれたフォルダに、ハヤくんが最後に上書き保存した日時のファイルを突っ込んで、新しく作ったファイルに入力を始めた。
「そう来ましたか」
「ハヤさんの存在を残すのも、消すのもどっちも辛いので…残すなら、今は見えないところに残そうと思います」
「まあ…別にいいけど」
ハヤくんの苦笑と、私のため息が、揃った。
次に使いやすいように、なんて嘘だと思う。
どんどん消したって、不意打ちのように現れるファイルや、宛先がハヤくんの名前のまま届くケアマネからのファクス、ダイレクトメール。見るたびに胸が苦しくなる。
寂しがり屋のハヤくんは、自分を忘れてほしくないから、自分なりに爪痕を残したんだろう。私はそう思っている。

ハヤくんは、亡くなって数日後から、私のそばにいてくれるようになった。他の人には姿は見えないけれど、終わったはずの引き継ぎの続きをするかのように、色々なことを教えてくれている。
私に霊感があるとかないとか思ったことはないが、たまに聴いたことのない話を教えてくれるので、多分本人なんだろう。

ハヤくんとは、一緒に出勤して、一緒に退勤するようにした。
事業所に戻ってすぐのハヤくんは、非常に居心地悪そうにしていたものだ。
初日は、どの面下げてここの敷居を跨いだら良いんでしょうか、なんて言っていたし、主任の顔を見るたびに、顔をくしゃりと歪ませたり、同僚の口から自分の名が飛び出すたびに、顔をこわばらせたりしていたけれど。
最近は、利用者の側へ様子を見に行ったり、休憩時間には屋外に出たり、のびのび過ごしているようだ。
まだ、自分の名前が聴こえると、顔をこわばらせるのは変わらないが。

あれからだいぶ経って、みんなの生活も元に戻りつつあるけれど、彼の名前を聞かない日はない。
「さかきさんに言われて、毎日出勤してますけど、わたしは仕事をしていなくて大丈夫ですかね」
「今までやりすぎるくらい仕事してたんだから、良いんですよ。ここにいてください」
利用者さんと交流するのも相談員の仕事、と私が利用者と取り止めのない会話をして事務所に戻ると、ハヤくんが胃の辺りを押さえながら心配そうに言った。
この世のしがらみから解き放たれた人が、なぜそんな気持ちになるのかと不思議に思う。
「朝、浮かない表情だったので、お話ししておいた方がいいかなと思ったんです」
「そうですか?」
ハヤくんが、さっき私とお喋りしていたAさんの顔を見た。不思議そうにこちらに視線を戻したのを見て、私は頷いた。
「私は仕事では理論とか根拠とかを確認しながらやっていますが、体調確認はバイタルの数値より、表情とか顔色を見てます」
「そうなんですか」
「もちろん、顔色悪い人はバイタルも見ますが、話してみると実は寝不足なんだよとか、頭が痛くて痛み止めを飲んできたとか、数字に出ない体調不良を訴えてることが多いですね」
「へぇ」
「もちろん、今みたいに勘違いならいいんです。でもこのところ勘が当たることが多いので…今日はちょっと気をつけて観察しておきますね」
「そう言えば、さかきさんは「今日は誰々さんの顔色が悪い」とか、言ってますよね」
そうなんです、と私は言って、申し送りノートに目を落とす。そうして、送迎の時に家族から引き継ぎ事項があった利用者の元へ行って、声を掛けに行った。

ハヤくんが私の後ろに付いて、一緒に利用者の話を聴いていた。
生前とは逆の場所で。
そんなことを考えると、胸が苦しくなってしまうから、なるべく考えないように意識していた。

1日のうち、利用者と過ごせる時間は短いし、電話がひっきりなしに掛かってくるから、あっという間に時間が過ぎる。
必要な電話はサービス提供時間内に、ケアマネジャーへの報告書や計画書を作成するのはそれ以外の時間帯にやっている。
当然営業時間が終われば、掛かってくる電話の本数は減るから、そこからは書類作成の時間として集中出来る。

ハヤくんと一緒に仕事していた時は、二人で残って一緒に帰った。だけど、ハヤくんが亡くなってからは、私一人の残業でも、主任が一緒に残るようにしてくれている。
主任が休みなら、みんなを帰らせて、施錠して籠ってしまうけれど。
防犯のためと、私を追いつめないため、だという。
だからどんなに仕事が詰まっていても、18時半には退勤するようにしているし、私が退勤する時は一緒にいる主任やリーダーたちが施錠してくれることが多い。
よって、私が持っているハヤくんの鍵は、あまり出番がない。
「さかきさんは女性ですから、そうすべきだと思いますよ」
「これでは仕事が捗りませんよ」
困った時には助けてくれる頼もしい仲間たちだけど、お喋りに花が咲くとどうにも喧しくて敵わない。
それまで集中できなくて、帰ってからやっと仕事に打ち込める。
「さかきさんは繊細ですね」
「そうでもないと思います。でも集中出来ないのでもどかしいです」
「利用者さんの顔色で状態が判るのは凄いですけど、職員のお喋りで集中出来ないのは辛いですね」
「それ、顔色の件と関係あるんですかね」
うーん、とハヤくんが私の後ろで、自分のスマホを使って検索し始めた。
私は仕事に集中した。
「HSPとか?」「あー、聴いたことあります」
と言いつつ、タイピングの手は休めない。
「わたしもそうかなって思ったことあるんですけど、結局受診していないから分からずじまいでした」
「そうなんですか」
チラッとハヤくんに視線を向けて、またパソコンの画面に視線を戻した。ハヤくんはスマホから視線を外さずHSPについて調べ続けている。
「いろんな種類があるんですね」
「Highly Sensitive Person ですっけ」
「あ、知ってるんじゃないですか」
「私も、そうなのかなって思ってたので」
また共通点が見つかった。とはいえ私が雑な発音で英語を使ったのがバレたのか、そうですか、とハヤくんが言って、お気に入りのゲーミングチェアに腰掛けて、スマホで調べ続けている。
「これ、正式な病名ではないんですね」
「そうなんですか」
スマホの情報に目を通して、ハヤくんが色々と教えてくれた。でも、ゆっくりできる時間はそれほどない。
「さかきさん、Aさんが、具合が悪いから今すぐ帰りたいっていうんです」
「あらまぁ」
介護士が私に報告しに来て、後ろから看護師が血圧計を片手にやって来た。
「今ちょっとお喋りしてたし、興奮してるから血圧は160台で高めだけど、熱もないし特に大きな症状もないんだけどね」
「そうですか」
「なんだかいつもと違う感じだって本人が言うし、もし家族が家にいて、Aさんが家に帰っても大丈夫なら、お帰りいただいても良いですよ」
看護師もそう言ってくれているので、Aさんのファイルを手にとって、本人に会いに行った。

無事にAさんを家族に引き渡し、記録をつけ終わった後で、ハヤくんが軽く頭を下げてきた。
「さかきさん、Aさんの体調不良、分かっていたんですよね?驚きましたよ」
「いや….最近多いんです。今まで全然わからなかったのに」
「覚醒しちゃったんですか?」
「ハヤさん、それどこの厨二病ですか」
冗談まじりに、笑って返すが、ハヤくんは冗談ではなかったらしい。
「急に、判るようになったんですか?」
「そうですね、今年に入ってから、かな」
記憶を辿って、答えた。
当時、まだ前の職場で仕事をしていたのだが、その頃から、調子が良くなさそうだ、と思った人が体調不良を訴えたり、入院したりすることが増えた気がする。
徐々に勘違いの確率が下がり、より当たるようになって来たので、バイタルの数値だけに頼らず、感覚というアンテナを使いながら観察してみようと思って始めてみたのは、ここの事業所に入職してからだ。
「すごい特技だと思いますよ」
「数値以上に根拠となる事実はありませんけど。私も良く当てたな、と実は今、ドキドキしてます」
でも、朝から目が潤んでいて、顔色が少し赤いな、とは思っていた。だから、ただの当てずっぽうでもなかった。
「五感を生かした観察、素晴らしいですね」
「ありがとうございます」
ハヤくんはいつもたくさん褒めてくれる。私は満更でもなくて、つい頑張ってしまう。

今日は落ち着いて対応ができた。帰りはいつもより少し早いくらいかな、と思って、ホッとしてパソコンに向かった。
「さかきさん、今日はどう?」
「あと10分でパソコン切ります」
主任の声に、慌てて答えて、入力を再開した。
鍵は使わない方がいい。ハヤくんからも主任からも言われたけれど、私は今もハヤくんの鍵を持っている。
彼が遺した、大切な品物だから。


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