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#国民全員が医療従事者だ、と言ってみよう

 最近、千葉県の熊谷知事が投稿したとあるツイートが一部からの猛反発を受けて削除されるという騒動があった。

「頑張ってきたのは医療従事者だけではありません」千葉県知事のコロナ対策緩和の提言が波紋…その後削除(女性自身) - Yahoo!ニュース

 記事によれば、該当ツイートの内容はこんなところである。

《医療関係者の中には繰り返す感染の波に疲弊し、できれば多くの人等が自分たちが病院の中でしているように強い感染対策をして欲しいと思うかもしれません。「医療従事者に感謝を」の言葉の繰り返しの中で医療従事者が最優先される風潮に慣れてしまったかもしれませんが、この3年以上もの間、観光・宿泊含め、多くの人たちが職を失い、生活を犠牲にしてでも、医療を最優先に感染対策に協力してきてくれました。
頑張ってきたのは医療従事者だけではありません。
雇用を失い、借金をしてきた人達、青春の貴重な経験を失った子供・若者のことも忘れないで欲しいのです。
私は「医療従事者に感謝を」だけは言いません。必ず「医療従事者を始め、協力頂いた事業者・県民に感謝します」と申し上げています。
社会を「緩やかに」正常化していきましょう》

「頑張ってきたのは医療従事者だけではありません」千葉県知事のコロナ対策緩和の提言が波紋…その後削除(女性自身) - Yahoo!ニュース

 対する批判はこんなところ。これも記事から引用。

《ちょっと認識のズレがある
自分たちが疲れて大変だから感染対策を呼びかけてはいないです
搬送先がなくなったり、救急車来なくなったり、通常医療が回らなくなったりする事を懸念していましたし、今もそれが懸念材料です》

《医療関係者が疲弊するから感染対策を呼びかけてるって思われるのうけるな。感染拡大して困るのは、医療関係者というより医療を必要とする人やその家族だと思うけど》

《医療従事者以外にも事業者などが苦しんだ点を認識する重要性はわかりますが、わざわざ医療従事者を敵視するような前置きをおく必要はありません》

《「医療従事者」が最優先されたのではなく、命を守るために「医療」が最優先されてきたけど、それって当たり前のことじゃない…?
「医療従事者が周囲に病院と同じような感染対策してほしいと思ってるかもしれない」って聞いたことないけど? 医療従事者に矛先が向くよう誘導する謎の知事。。》

「頑張ってきたのは医療従事者だけではありません」千葉県知事のコロナ対策緩和の提言が波紋…その後削除(女性自身) - Yahoo!ニュース

 こういう批判を読むにつけて、医療従事者らの無頓着さに驚く。何に対して無頓着かと言えば、自分たちと大衆との温度差に対してである。彼らが病院の外(テレビでもいいし家族生活の場でもいいし地域交流の場でもいいしインターネットでもいいが)で必死に行ってきた感染対策の呼びかけというのは、すべて社会を病院にする行為として機能し、大衆から少なからざる反感を買った。社会が病院になるとは、社会の構成員ひとりひとりが患者あるいは患者予備軍として扱われて、健康への過度な気遣いが求められ、健康を阻害し得る(するではない、あくまで【し得る】)行為すべてに※印=注意書きがつくようになるということである。これの何がマズいかと言えば、「病に罹っても構わん」という人間すら病院の中に包含してしまい、彼らの生の楽しみを奪うことである。病に罹っても構わんという人は、つまり「××を奪われるなら命を捧げてもいい」と答えられる人である。自由、愛する人、スポーツ、快楽、カネ、親、映画、プライド、国家、神…××に入る言葉はなんでもいいが、一方でこの××に何も入れることができない人間も存在する。そういった人間は命が最優先となり、「命を奪われるなら命を捧げてもいい」というトートロジーに陥る。彼らをたとえば生命至上主義者と呼ぶ。その中の過激派は、先ほどの「××」に何かを入れることができる人間を理解できない。世の中を見渡せば、あるいは歴史を紐解けば、命を投げうって何かを達成しようとした人間などわんさかいるのだが(たとえば軍人、たとえば革命家、たとえば自殺者…)、彼らはそれを知らないし理解もできない。だから、社会が病院化することに諸手を挙げて賛成してしまう。

 いま、医療従事者に対する大衆の立場の種類は、主に3つある。
①病院の中でも外でもありがたい存在であり、感謝している
②病院の中ではありがたいが、外では鬱陶しいだけの存在だと思っている
③病院の中でも外でも鬱陶しい

 ①と②がメジャーで、ややラディカルに走れば③になる。感染対策によって人生の諸経験が奪われた、あるいは制限されたことに憤る人間の多くは②になるし、②の立場からすれば熊谷氏の例のツイートは間違っていない。自分が②の視線に晒されていることを自覚している医療従事者も、これには納得である。ところが日本中①だらけだと思っている医療従事者は、熊谷氏を批判してしまうわけである。しかしその「批判」こそが、更なる「社会の病院化」を誘うわけで、彼らが更に嫌われる原因となる。彼らがそこに気づかない限りは、大衆と医療従事者の温度差はいつまで経っても埋まらないだろう。もっとも、埋まらなくてもそれはそれで愉快である。

 ちなみに③の立場は、医療業界のシステムそのものを嫌う・非難する立場とも言えて、熊谷氏のツイートを「まだまだ甘っちょろい」と思っているはずだ。今のところはマイナーだがやがて膨らむことになろう。

 …ここまでが長い長い前段である。この記事で訴えたいことは、いっそのこと「国民全員が医療従事者を名乗ればいいではないか」ということである。一見素っ頓狂であるし、私も冗談半分に言っているが、一応の理屈は用意してある。

 そもそも、この3年間においては社会=病院であった。ということは、社会の構成員全員が病院の中にいた。我々がやらされていた感染対策とは、「医療逼迫を起こさないように」あるいは「病院を病院として維持させる」ために行っていたものである。いずれにせよ、「病院の中で労働していた」と解釈することが可能である。これによって、国民=医療従事者という等式を成り立たせることができる。国民は、あの強烈なパニックを通して医療従事者に「化けた」のだ。

 とすると、「医療従事者たる国民」は、労働時間に応じた賃金を貰わねばならない。いやぁ、何時間働いただろうか。日数にして1000日を軽く超え、一日の睡眠時間を除くすべての時間は労働していたと見做せるので…あれ、これはとんでもない額だ!ついでに学校行事や祭りを中止した分の「ボーナス」も必要だ!…こうなってくると10万円程度では全然足りないような気がしてくる。もっとくれよと、心の中でなにかが囁いているようだ。

 「労働時間」の解釈は難しい。律儀に感染対策をしていた時間を労働時間と見做すと私などは一般の人の半分未満になろうが、しかし、「病院化した社会」に留まっているという、たったそれだけでも労働と見做しちゃおうという主張もできるのだ。

 狭義の医療従事者はよく「俺たちはこれだけ忙しかったんだ」とアピールしてくるのだが、しかし、彼らは給料をしっかり貰っているし、なにより、「自ら望んで」医療に携わっているのだ。こちらは違う。志望した記憶もないのに、面接も試験もなにもかもすっ飛ばして病院に長いこと勤務させられたのだ。そして中には、感染対策のために店を潰した飲食店主だっている。試合に出れなくなったアスリートだっている。クラスメイトと会うことが出来なかった学生がいる。これはもはや「無理やりの転職」と言えよう。やはり酷い話ではなかろうか。

 医師会でも尾身茂でもいいが、とりあえず賃金を要求しておくのも悪くない話だろう。上司ですから。

…受け入れられるような話ではないとしても、暴論だと思っていても、とりあえず記事にしておくことが大切だと思ったので、書き残しておきます。

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