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『居るのはつらいよ』を読んで~看護学生が「ケア」について考えてみた。

私は約10年の社会人経験の後に大学に入り直した看護学生である(現在は妊娠・出産により休学中)

入学した当初の1年間は「看護とは何か」ということについてひたすら考えてきた。

国際看護師協会(ICN)の看護の定義はこうだ。

看護とは、あらゆる場であらゆる年代の個人および家族、集団、コミュニティを対象に、対象がどのような健康状態であっても、独自にまたは他と協働して行われるケアの総体である。
(日本看護協会訳、2002年)

つまり「ケアの総体」が看護というわけだ。しかしその「ケア」というものがどうも曖昧なのである。医師が行う「キュア」は、結果が評価しやすい。それに対して看護師が行う「ケア」はどう評価すればいいのか。まずそこが全然わからなかった。結果が評価しにくいということは、目標も立てにくいということで、完全に数値で評価される営業部に長らく在籍していた私は不安だった。

しかし、その曖昧さが考える余地を残しているという意味で非常に哲学的なので、そこに強烈に惹かれる気持ちも同時に存在したのである。

* * *

出産により休学した私は「看護学生」という立場を少し離れ、患者としての立場で「ケア」を考える機会に多く恵まれた。そんな中で読んだのがこの『居るのはつらいよ』である。

この本の内容をざっくり説明するとこうだ。京大卒の臨床心理士が沖縄の精神科デイケア施設で自問自答しながら働く中で、「ケアとセラピー」について考えたことが記されている。大前提として、看護師のケアとここで描かれている臨床心理士が精神科デイケア施設で行うケアは異なる。ただ、「ケア」という大きな枠組みでは同じものであると考える。

正直「ケア」を行う仕事を目指す者として、この本で描かれているケアに関しては後ろ向きな思いを抱いた。でもそれは仕方ない。著者は「セラピー」をやりたくて就職したのに、「ケア」にどっぷりと浸かる羽目になるというある意味不遇な境遇にあった。

そもそも著者は「セラピーが上で、ケアは下」だと考えている。その理由は、著者が経済的視点を内面化していることによる。
ケアがお金になりにくいことは事実であり、特に専門化されていない領域のケアは社会的評価や報酬が低い「依存労働」(注:脆弱な状態にある他者をケアする仕事)であると述べられている。

最終章では、著者がデイケアを辞めることになった理由を下記のためとしている。

「ケアの根底にある『いる』が市場のロジックによって頽落することで、ニヒリズムが生じる」

つまり、デイケアの人たちが「ただ、いる、だけ」で多額の社会保障財源が投入されるという事実は、経済最優先社会においては無駄なこととされかねない。
一方で、デイケアはその「ただ、いる、だけ」によって金銭的報酬を得ている。
そこに、デイケアにおけるケアに意味はないのではないかというニヒリズムが生じてしまうのだ。

このように、ケアに対して良いことが書かれているとは言えない当書ではあるが、私はそれでも「ケア」ってやっぱり面白いなと思ったのである。

著者の定義する「ケア」とはこういうものだ。

ケアは傷つけない。ニーズを満たし、支え、依存を引き受ける。そうすることで、安全を確保し、生存を可能にする。平衡を取り戻し、日常を支える。

一方のセラピー。

セラピーは傷つきに向き合う。ニーズの変更のために、介入し、自立を目指す。すると、人は非日常のなかで葛藤し、そして成長する。

私は思った。看護におけるケアは、ここでいうセラピー的要素も含まれているのではないか。現に家族も含めた看護の重要性は盛んに謳われているし、患者の傷つきに意図せず向き合わざるを得ない機会も多いだろう。著者も言っている。この両者は入り混じって存在していると。
そういう意味で、希望的観点から言えば、看護におけるケアは非常に奥深いものになり得るのではないか。

そして、我が身を振り返ることになったのが、ユング心理学の「傷ついた治療者」理論である。
つまり「治療者の傷ついた部分は、患者の癒す部分によってケアされる」ことが往々にしてあるという。そして、こういう関係性が成り立つ。

「ケアすることでケアされる。ケアされることでケアする」

著者は「世の中の多くの治療者が『傷ついた治療者』の物語を生きている」と述べている。よく考えたら、私も看護の道に進もうと思ったのも、「自分自身の傷」があったからだ。私は自分が癒されたかったのだろうか。

当書には看護師のケアを象徴的に表す場面も登場する。「『こらだ』に触る場面」である。「こらだ」とは心と体の境界線が焼け落ちた状態のことであり、「こらだ」が現れると、自分で自分をコントロールできない状態となる。筆者の勤めるデイケアの患者達は、その「こらだ」が現れた状態にしばしば陥る。

そのような中、デイケアの看護師たちはその「こらだ」に触れるのである。そうすることで、彼らの落ち着きを取り戻すために。看護の基本である手当ての精神を、彼らは行動で実践しているのだ。この場面はとても好きだ。

* * *

ケアって何だろう、そう考え続けている私に、この本はネガティブなものも含めて様々な示唆を与えてくれた。

私は残りの学生生活も、ケアの現場に出てからも、「ケアって何だろう」ということをずっと考え続けていくのだろう。
もしかしたら私はこの先、著者が思ったように「根本的に人生の選択を誤ったのではないか」と思う可能性も大いにある。いや、多分あると思う。
そうやって悩んだ時には本書を読み返したいと思う。