誰かが気が付かせること

自分史上。初めての個展を小規模ながら開く。


今日はそのデータを提出した。


う~ん。と何十も出てきたタイトルの中でひとつを選び
またそのタイトルと同じような言葉、英語にしてみたり
少し言葉を変え、語呂合わせ、響きを良くしたタイトルを熟考する。

たかが、タイトル。
内容や広報、思いの方が重要なのは承知の上で
やはりタイトルというのは、会う以前の「知らない」状態の人に届くもの。

とても重要な看板だ。

簡単でありきたりなものはつまらないが
かと言って、こじらせすぎたものや、深く考える必要なものがあるようなものは良いとは思えない。  

長すぎても、言いにくかったり、今後のデータ上の行間やバランスがめんどくさくなったりするだろう。

この展示会は
自分にとって、いわば「初めて」記念すべき1を失うことであり、
流れを作る1であり、完璧主義の私には、未来の私のためにも
心からokをだせるものでなくてはいけない。

通勤時間の自転車に乗りながら、ぶつぶつと風に向かってつぶやくこと、
二週間。

ようやく決まったタイトル

そして、ここからが難しい。

この個展の内容とタイトルと自分がどんなことを考えたからこれになったのか、これを作ったのかを、関連付けながら「良い」言い方でまとめなければならない。


やりたいことでありながら、苦手とする。

私にとって時間が非常にかかるのがこの工程だ。
「付属ステイトメント」

ブックカバーに書いてあるような書き方か、
プレゼンテーションみたいな書き方か。
語りかける詩的で私的な素敵なことば達なのか。


あまり自分のボキャブラリーや文語的表現に自信がない。
そしてその分が、知人に届くことが嫌なのだ。

こうやって匿名でスラスラ思ったことを今だけ
ぶつけるように独り言のように書くのは好きだ。


結局、詩的表現からの現実的説明。

を提出。最後の動詞をいつも一番迷う。
納得のいくものが、こういう大事なかっこいいことを言いたいときは
本当に出てこない。

大学の入試もそうだった。そして締まりが悪いのは許せず
時間がかかるんだよな…。

他の芸術家さんたちはどんな言葉を使うんだろう。


データの提出先は、展示会場なる場所のマネジメントや、私の個展の広報のことを担当してくれる方たち。

メールの返信にはこうあった。


タイトル、良いですね。
ふと、方丈記を思い出しました。
染色ならではの物事の成り行きにゆだねる姿勢が表れていると思いました。


と。


素敵な返信くれるんだな~と思った。
ぱっとこういう言葉を返してくれる人が友達にいたら気持ちいいな。

自分もそういった言葉や例がすっと浮かぶ人間でありたいと
常に思っている。

実は私の周り(長い関係)は芸術に疎い、興味がない人が多い。
というか、物事を深く考えて生きているような
何なら私のようにOVERTHINKINGしているひとはほぼいない。


じぶんのことで、ここ数年で気が付いたことがある。

教養のある人に大きな好感を持つことだ。


ちなみに、和歌にはすごく惹かれる。
平家物語が好きだ

私は本を好んで読む人を尊敬するし、教養のある人
語彙力のある人として敬意を払う。

自分もそうであったらと思ったことは多々ある。

きっと本を読めない、読むに至らないのは、識字→意味理解の脳内処理が他者より非常に遅いことが原因。
そしてせっかちがゆえにイライラしてしまったり、飽きてしまうため
そもそもその長さや本の太さへの心のバリアが張ってある。
自分の事をディスクレイシアだと思ったことがある。

必要な時に過度に集中すればできなくはないのだが
目通・頭痛などを引き起こすし、声に出して読むことは下手すぎてできない


その点、和歌は短い。

和歌は短文のわりに意味が重なって込められている。そして物事の真意をうまく伝える。ポエムや名言集もそうだが、、
だから、好きだ

とは言え、自分自身は文章をまとめる力もないため
ながったらしく書いてしまうか、無になるかの究極二択者なのだけど。


と思っていたが、

この指摘を受けて
方丈記を改めてみてみると気が付く。


私が惹かれている何かは、

「無常観」なのだと。


「無常」世に常は無い
という言葉は元々好きで
ふと声に出していることもある。



咲いていたのに枯れ行く花。燃えて消える火。留まることを知らない光。
流れ続ける空と水。自然物の生み出す色。
頑張っているのにうまくいかないことも多い人生。
たった一度で、一刻も戻すことの出来ない時間。
ずっとそこにいそうだった人と、感情
失いたくなくても知らない間に消えていく記憶
消えることがないように跡、いずれ忘れる傷


無常観を表す言葉たち
無常観を示す自然物たち

そしてその無常観を認識する人間。


これがこの個展というか、自分の作品というか
自分が「儚さ」だけで終わらせていた言葉の正体であり
私が感じたことによって生み出されているもの
いや、無意識のうちに生み出しているものが
帯びているモノな気がする


良く考えたことがある。
何度も考えたことだ。
なぜ?なぜ惹かれるのか、なぜ取り入れているのか
説明的すぎる時もあったり
抽象的すぎたり、ありきたりすぎたり
皆もそうじゃん、当たり前じゃんと

自分の表現の着想・モチーフはどこから?どうして?
これが明確にできないことは喜ばしくない。

他人はひとまず置いておいて、自分には許しがたい。

好きや美しいからという理由で終わらせられない。
その理由の先はとこばにしてきたつもりだったが
これといったピンポイントな、手に取りやすく
手に取ってもらいやすい言葉にたどり着いていなかった。

深層心理を掴んだような気がする。

思えば、かつての作品や目が行くもの、
心が揺さぶられるもの
私が一生懸命伝えた言葉たちのなかにも
隠れていたのは
それだった


自分だけで綴って、添削した文章のなかでは
表面にあるもしくはその表面のちょっとしたにあるものを見ている
深く見ているつもりで、そこまでしか届いていない。

人が読んで、フィードバックをくれることがいかに大切かが分かるが
何を隠そう。僕は心の隠し扉が何重もあるタイプなので
それが、心の扉を開けてもらいたい人を見つけてカギを渡すまでの行為が
なかなか実行されないんだよなあ。

ただ、人と共有することって大切で、
共有っていうだけじゃなくても伝えるって大切。


自分という身体を持ってして、「伝える」行為は得意ではない。
作品の説明、トーク。発表。SNS。

逃げてたらいけないけど、後回しにしがちなここを
素敵な出会いと、他人への理解や他人に理解してもらうことを目的とするのではなく、この自分の理解を深めるためにしていかなきゃいけないなと思わせる一日だった。

頑張っていこう。













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