見出し画像

【読書感想文】川上未映子「乳と卵」

今日は久しぶりに読書感想文を投稿したいと思います。
今回読んだのは、こちら。
(ネタバレする箇所は明記しています。)

川上未映子さんの2作目で、2008年に芥川賞を受賞した「乳と卵」。
「卵」は「たまご」ではなく「らん」と読みます。

独特な文体について

まず読み始めて誰もが気になるのが、その独特な文体。
句読点が極端に少なく、「。」に至ることなく「、」で区切られた文章のようなフレーズのようなものが延々と続く上に、終始関西弁。
これが最初はとても気になります。
違和感を克服できず途中で断念してしまう人もいるようです。
しかし読み進めるうちに慣れるというか癖になるというか、いつの間にかスムーズに読めるようになります。むしろ人が口に出して喋る時の言葉の澱みない流れに似ているのか、とってもスピーディーにすんなり頭に入ってくるような感じさえしてきます。

川上さんはこの書き方を全ての作品では採用していないようで、
この作品だけなのでしょうか?ちょっぴり残念です。

(以下、ネタバレあり)
読み終えての感想は、巻子(母)と緑子(子)の対比がとにかく見事。

思春期と更年期の対比

まず女性としての体の成長に違和感を持ち苦しむ思春期の緑子と、
女性としての老化に抗う更年期の巻子の対比。

巻子が豊胸手術を受ける理由が語られていないとおり、実は巻子が実際に老化に抗おうとしていたのかは明らかではないのですが、夏子(主人公)による巻子の描写(痩せ細っていく様子、シワや体の醜い部分が目立っている様子)からして、作者は、巻子が更年期の「老い」を体現していることを表したかったのではないかと思います。

だから、豊胸は老いへの対抗手段だったのではないかと私は思います。
特に巻子はホステスとして働いていて、「女性」であることを仕事にしている身。「女性」でありながら少しずつ若さを失うことの意味を噛み締めていたのではないでしょうか。

語る・語らないの対比

もう1つの対比は、語る・語らないの対比。

まず緑子は、巻子・夏子と喋らず、筆談でコミュニケーションをとります。
これはきっと自分の体の成長に対する違和感から生まれた症状ではないかと思います。つまり緑子は自分の胸の膨らみを含む女性の体の成長を拒んでいますが、対照的にあえて胸を大きくしようとしてまで「大人の女性」像を積極的に受け入れている巻子は、緑子にとって不思議を通り越して嫌悪の対象であったに違いないと思います。
少なくとも、自分が一番に悩んでいることについて、相談できる相手ではなかったと思われます(現に、生理がきても実の母にそのことは言えないなどと日記に書いています)。

こうして喋ることをやめてしまった緑子ですが、実は日記を通して巻子以上に自分の気持ちについて語っています。
夏子と辞書を漁るシーンや、日記の中で色々な単語を分析していることから明らかなとおり、緑子は言葉に対して非常に敏感で、その分喋ることについては慎重ですが、実は吐き出したいこと問いたいことはたくさんあり、日記にそれらをぶちまけているのです。

一方で巻子は、夏子や巻子に対してたくさん言葉を発しますが、実は自分の気持ちについてはほとんど語りません。
最後まで緑子の父に会った経緯も明かさず、豊胸の理由も明かさず、むしろ理由を聞かれて「理由はない」という趣旨のことを話しており、語りたい衝動みたいなものがないように思えます。

また、巻子は気まずい雰囲気をたくさん笑って喋ることで誤魔化すような癖があります。つまり言葉を「隠れる」ことに使い、コミュニケーションのためには有効活用できていない印象です。

たくさん喋るが語らない巻子と、
全く喋らないが日記を通して多くを語る緑子の対比。
この対比がまた良く、「言葉」というものについて考えさせられます。

生と老いを強制される運命

ある対談で、川上さんは次のような趣旨のことをおっしゃっていました。

「人は、何の相談もなしにこの世に生まれてきて、
しばらくしたら強制退場させられるということが、
ずっと昔から不思議でならなかった。」

その川上さんの疑問が節々に感じられる作品だったと思います。
何の相談もなしにこの世に生まれて体を授けられ、
その体の強制的な変化に巻き込まれている緑子と、
与えられた体の生まれつきの特性や、老いていく姿に悩み固執する巻子。
結局は同じ運命を違う時点で生きる親子を描いた作品であるといえます。
母の苦しむ姿をみて巻子は「可哀想」と言います。
きっと、誕生して老いるという人の定めを強いられ苦しめられている巻子が可哀想だと思ったのではないかと思います。

女性であること、成長し老いることについて考えさせられた作品でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?