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20230801 私小説【きらきらのうみへかえるのか】

■プロローグ

「父さん、これで僕も人間ランク最下位から2ランクくらい上がれたかな、ごめん」

既視感の中に祖父忠義の存在があった。ただし、僕が知ってるのは写真の中のパンチパーマに茶褐色の忠義で動く忠義については皆目見当もつかないがいかにも海の男。僕とは正反対の風貌だ。都会生まれの人間レベル最下位の僕。一年中、同じ色のネルシャツを着て、いかにも引き籠りだ。隣にいる忠義はいつも耳元で同じことをつぶやく。潮焼けか酒焼けなのかはわからないがしゃがれた声だった。「忠義、これでよかったんだよね」少し俯き、隣に誰かいるかのように翔は話しかけていた。「僕は孤独だった」徳島の寂れた砂浜に打ち寄せるキラキラひかる波。太平洋を悠々と泳ぐ海亀が生まれ故郷のこの村の寂れた浜を目指すように僕は、この浜に戻ってきた。中2の夏と同じように波はキラキラと眩しかった。「この海にお前は帰るんだ」忠義が耳元でつぶやいた。いつからか祖父忠義のしゃがれた声が心地良かった。祖母志乃が一人で住む徳島の寂れた村の家の仏壇の上に飾られていた写真でしか見たことのない祖父忠義の精悍な顔つき。「本当にあんな声なんだろうか?」父の忠志に聞こうと思ったが、今では無理なことだと気がついた。「父さん、大嫌いだった故郷に帰ってきたよ」寂れた浜を見つめながら「これで父さんも孤独じゃないよね」海に向かって喋りかけた。

■父親の影

祖父忠義が海で遭難。遺体も見つからずに時がすぎた。当時、一緒に漁に出ていた僕の父親忠志は、これを期に収入が不安定な漁師の仕事に見切りをつけた。忠義が生きていたらきっと、「お前を守るために…どれだけ…」と忠義は忠志にむかって暴言と暴力の雨を降らせていたことだろう。忠志がいくら抵抗しようと雨のように拳骨が忠志の頭に降り注ぐのが容易に想像できた。そして、志乃はその傍で悲しげに笑っているだけ、「忠志はあなたと同じではないんです」志乃が震える声で忠義に向かって言い放った。「お前がそうやって忠志を甘やかすから…」忠義が軽蔑するような目つきで忠志を見つめていた。「ほんとうに俺の息子なのか?」と志乃の方に冷たい目線を送った。

遭難後、遺体は見つからず、形ばかりの葬式を行い、忠志は祖母を残し、東京に仕事を求めた。当時、故郷を捨てて、都会に出ていく若者たちは、時代の流れに乗り、都会を目指した。忠志は、産まれた浜に戻らないと決意していた。「こんな田舎とはおさらばだ、見えない鎖も…」志乃に何かを告げるとまた、面倒なことになると思い、何も言わずに早朝に家を出ると決めた。「もう、何があってもここには戻らない」忠志は、故郷の徳島の寂れた村を忘れようと、自分の家庭を顧みずに働いた。実際は、忠志だけでなく社会状況がそのことを容認、豊かさのある幸せに大きく舵を切った時代だった。1980年代、核家族が当たり前になり始めた時だった。翔が生まれて、数年後に、小さいながらも忠志は戸建ての家を買い、一人息子にも勉強部屋を作った。 夜、僕が一人自分の部屋にいる時にそれは突然起きた。忠義の存在を感じ「この海にお前は帰るんだ」と僕の耳元で囁く忠義。なぜ、見たこともない僕のところにくるのか?そして、「海に帰る」とはなんだ。僕にとっての故郷はここ東京。徳島の村なんて、あの夏がなければ知ることもない場所であり、僕の故郷ではない。最近では、忠義の存在が日常生活の中に紛れ込み非日常との区別がつかなくなった。忠義の存在を僕以外は感じていないようだが、なぜか、我が家のタブーに触れている気がした。忠志は、祖父母の話を、全くと言っていいほど、僕に話すことはなかった。忠義の事故のことなど、僕が聞いても話題をすぐに逸らすほどだ。忠志が最も嫌う話題だったからだ。僕が物心ついてから一度も故郷に帰るという話が出た試しもなく、母親からうっすらと聴いたことがあるくらいだった。そんな忠志には望郷の念というもの自体、故郷に捨てたようだ。そんな父親から、どこか故郷に対し、消し去りたいような記憶だけが今も残ってるようだった。僕は、忠志不在の家の方が、気が楽で良かった。「そう、僕は孤独が好きだった」たまに、家にいる忠志は、僕に口うるさく、小言を言い始めるのが常だった。僕に対する愛情でないことはすぐにわかった。それは、母さんからの僕に対する日頃の不満を母さんから聞き、母さんの手前、僕の行動に制約を求めるのだった。そんな存在の父親がうざかった。忠志が忠義にした直接的なハラスメントではなく、真綿で首を閉めるような言動であり、行動だった。唯一、家庭人としての役割を果たすことで忠志は満足げであった。家の中での母親のご機嫌が第一で、母親というものに対しての愛情表現だったようだ。人間レベルの低い僕でも父親の孤独は感じることができた。

■父親の故郷

 中二の夏休みに入ろうとしたある日の夕方、忠志が神妙な顔つきで僕を茶の間に呼んだ。「翔、夏休みの間、徳島の実家で志乃さんと一緒に一ヶ月だけ住んでくれないか?」初めて忠志から祖母の名前を聞いた。実の親をさん付けってどういうことだ。いつにない真剣な表情に僕はこの父親でも真剣な顔をするのかと思ったほどだ。「なんで僕なの?父さんは?」と僕は父親に尋ねた。忠志は「俺がいくとややこしくなるんだ」そんなの僕が行っても同じじゃないかと思っていたが、父親の真剣な顔に怖れを感じた。「翔、すまんが頼めるのはお前しかいないんだ」と忠志にしては真剣で、怖い顔をして僕のことを睨んできた。「わかった、行けばいいんでしょ?」祖母の志乃に何かあったのか?でも、僕にしてみれば、忠義同様に見知らぬ祖母であった。なんだか、貧乏くじを引いた気分だった。今更、砂浜ではしゃぐ歳でもないし。出会いか?まあ、それも無理だろう。僕の人間レベル最下位の僕が望んではいけないことだ。

それにしても、自分の母親にそんなに会いたくないと思うほどのことって一体なんだろう?今もそばにいる忠義に聴いてみたいと思ったが、忠義は、一方的に話しかけるだけで僕の話すことは聞こえないみたいだった。父親は、やはり忠義の存在に気が付いてはいないみたいだった。それとも、気がつかないふりをしてるのか?どっちだろうか?

■祖父の影

「よく来たね」と志乃の声。結局、忠志は一緒については来なかった。何もない寂れた海辺の村。キラキラと光る波だけが印象にのこった。若い人たちはみんな大阪や東京に働きに出て、この村のことは忘れたように都会で暮らしてるらしい。「初めまして」祖母の志乃は70歳くらいらしいがかくしゃくとした、東京では見ることのない色黒のお婆さんだった。ここに呼ばれた理由を聞こうと志乃の顔を覗き込んでみたが、軽くいなされた。この先のことが思いやられるな。忠義の声が耳元で「お前はこの海に帰ってくるんだ」あのさぁ、ここにいるんだから海に帰ってきたんだよ。だから、もう、出てこなくてもいいよ。一ヶ月したら、また、東京に戻るけどね。これは父さんとの約束。虫とか出てくるんだろうな大きいのは怖い。夕方すぎると真っ暗だし田舎は怖いことだらけだ。

■父親との約束

毎日ではないにせよ、僕は市場に手伝いに行った。この村で必要なものといえば、おそらくお金ではない。漁港に行けば、売り物にならない魚が転がっている。それをもらえれば、夕飯のおかずの出来上がりだ。お米も味噌も醤油も自給自足体制が出来上がっていた。そこに僕のような若い労働力が加われば、それだけで十分。裕福とはいえずとも貧しい生活でもない。でも、なぜ、この僕が必要なんだろうか?祖母も一人で生活できるだけの体力はあるようだけど。「翔、ちょっと」台所から、志乃の声が聞こえてきた。「なに?」志乃からの返事が聞こえない。「志乃さん!」台所から、大きな音が聞こえてきた。「どうしたんだ!」慌てふためく僕。隣の家に人を呼びに向かう。「志乃ちゃん、大丈夫?大丈夫?」僕は救急車の手配をして、到着を玄関で待っていた。

■祖母の言葉

 とりあえず、祖母は、元気を取り戻していた。入院中も父親に連絡を入れたが返信はなかった。なぜ、そこまで、故郷や実の母親を遠ざけるような態度に出るのか?僕には想像がつかなかった。単に仲が悪いだけではすまない気がしてきた。「志乃さん、父さんのことだけど…」志乃が不安そうな顔つきで僕の方を振り返った。「もう、忠志のことはいいんだ」何がいいのだろうか?もしかして、行方不明の忠義のことと関係あるのか?志乃が重い口を開き始めた。「あの子と父親が漁に出てさあ…」やはり、忠義の事故と関係があったんだ。志乃によると忠義と忠志の関係は子供の頃から良好ではなかったようだ。忠義との対立は大人になる程ひどくなったようだ。今ならモンスターペアレンツと呼ばれるであろうかとが想像できた。ただ、その当時の父親像としてはデフォルトだ。それでも、忠義の暴力は激しく忠志の将来は漁師の道しか許すことはなく漁師のくせに船酔いする自分の息子を漁師仲間によく愚痴っていたようだ。それを聴いて、また、忠志は父親と歪みあっていたようだ。忠義にすれば、自分の父親にされた教育のつもりで忠志と向き合っていただけだった。僕にあまりうるさく言わないのはそんな自分の子供時代の影響ではと思った。

■祖母の涙

 志乃は、漁港の手伝いを再開させた。「志乃さん、無理しないでよ」僕の言葉を遮るように「大丈夫だ」と僕に振り向きもせずに、家を出ていった。「僕も一緒に行くよ」漁港に着くと「志乃ちゃん?大丈夫?」といろんな人から声をかけられていた。嫌な顔もせずに、一人づつに会釈をする志乃。人気者なんだと感心する僕。そして、魚を捌く作業に戻った。僕のここでの生活も、あと1週間。父さんに延長をお願いするかどうか迷っていたが、志乃さんの具合を確かめるには、やはり時間が必要だろう。僕には、有り余る時間と体力だけが存在していたのは事実だ。昼休みに、父さんと同じくらいの歳の男の人が声をかけてきた。「忠志は、元気にやってるのか?」と聞かれた。「えっ?」僕は突然のことで答えに窮した。その男は、きっと、ここにはもう戻ららないと思っていたが「息子だけが戻ってくるとは」お前の父親は、自分の父親を海で見捨て、志乃さんさえも捨て、そして、この村も見捨てたんだ。そんな弱虫は、この村で生きて行くことは無理だし、そんな奴は必要がない。志乃さんが忠志を甘やかせたから、一人前の男になれなかった。そして、ここを捨てることでしか存在をアピールできない男なんだ。僕は、この男が説明したことは正しいのだろうが「忠義を見捨てたってなんだ?」忠義は、漁の事故で死んだんじゃないのか?父さんと一緒で何があったんだ。ことの真相を志乃に確認してみようと思ったが、漁港の仕事が忙しく聞きそびれた。

■祖母の過去

「志乃さん、時々、祖父の忠義の声が聞こえるんだ」冷静に志乃さんに話しかけてみた。志乃さんはびっくりしたようだが、なぜか、涙を流し始め「許して」と一言つぶやいた。僕が「何言ってるの?」と聞いても、急に体を震わせて頭を抱えて、後ずさった。「どうしたの?志乃さん」ごめん、ちょっと、昔を思い出しただけだから。「怯えてるように見えるけど」僕が聞いたけど、大丈夫としか言わなかった。「翔くん、忠義のことだけど…」志乃さんは、息子の忠志を忠義の暴力から守ってきたようだった。そして、忠義の事故の時に忠志から聞いた話を僕に教えてくれた。「父さんがそんなことを…」誰にでも、知られたくないことはあるけど、父さん、もしかして、志乃さんを守ろうとして、わざと忠義を見捨てたのか?あの父さんが、それほどまでに追い詰められていたとは信じられない。「お前が帰るのはこの海だ」忠義の声がまた、耳元で聞こえてきた。

■再度、海へ

 今、僕は父親の産まれた村に戻ってきた。この村で生活を立て直すためだ。就職し、働き始めた僕に忠志は、だんだんと依存し始めて働くことを諦めたようだ。何度も口論を繰り返し、母親に暴力まで振るうようになった。母は、そん状況に居た堪れなくなり、家から消えた。志乃から聞いた父親と祖父の関係の再現だった。結局、忠志は、いつでも、現状から逃げ回ることで自分の孤独を隠すように生きてきた男だった。僕が忠志と対立する度に、忠志は、烈火の如く怒鳴り、まるで、忠義の亡霊が乗り移ったかのように、僕に暴力をふるうのだった。「父さん、もう、やめてくれよ」忠志の平手を避ける僕。大きくよろける忠志。「てめえ、なに避けてんだ!」とどなる忠志、「父さんやめてくれよ」勝手によろけ、家具の角に頭を打ちつけて、のたうち回る忠志。それをじっと見つめる僕。耳元で「お前の帰る場所はあの海だ」と聞こえてきた。この時、初めて僕の血を恨んだことはなかった。「いずれ、僕も父親のようになるのだろうか?」何もできずにその場に佇む僕だった。「あの海に戻ろう」キラキラとゆらめく波が押し寄せる砂浜。そして、人間のレベルを上げれるように、この村で静かに暮らしていこう。今、僕にできることだけを考えて暮らしていこう。「父さん、この海が大好きだろう」と返事を促しても、聞こえるのはキラキラな波の音と、海鳥の鳴き声だけ。「この海に戻るんだ」と忠義の呟きだけ。「父さん、この海に帰ってそして、忠義と話して」

この村の浜には、キラキラな波が押し寄せるだけだった。


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