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#53 冗談の境界

さあ、53本目書いていこう。

孤独は嫌いじゃないが、真面目が自分を殺す

一人で何かをするのは別に嫌いじゃないし、特に恥ずかしくもない。

休日に一人で過ごしていたとしても、今は一人で何かをできる時間は楽しいし、模索の日々だ。学生の頃から一人暮らしに憧れはあったのだが、経済的な理由から不可能だった。親はそんなことは言わなかったが、兄弟が多い家族に囲まれた私には容易に想像がついた。

人付き合いは正直あまり得意な方ではない。

昔から人前に出ることはあまり好きではない。目立たないように行動してきた節はある。

だが、学級委員長とか生徒会とかリーダーとか、いつの間には自身の内申点を高めようと思っているうちに、前のめりになり、苦手なコミュニケーション力を背に、不思議とリーダーシップが要求されることをしていた

当時は「これは内申点を高めるため」とかなんだと言い聞かせて自分を納得させていたように思う。

だが、押し殺した感情は、当時、不合格という自分の中では恥な出来事でによって瓦解した。それ以後、本気(マジ)について、嘲笑う自分が登場することになる。真面目が自分を殺した。

マジという呪縛を一本ずつ解いていく

大きな五指で全身を押しつぶされて身動きが取れない状態。それを大学時代は解いていく修正作業が入る。

「世界一になる」という謎の縛りを自分に課して、挑戦と更なる経験をしていこうと誓った学生時代。様々な経験をしていくことも必須の課題だった。

やはり毎回思うのだが、結構自分は鈍感だ。というより、やっぱり人付き合いが苦手なのだろう。当時を振り返ると、なぜその行動をとったのか、なぜその行動をとれなかったのか、という反省点が出てくる。

しかし当時はそれを気づけなかった。

真面目という呪縛はいつもついてきて離れない。今こうしている瞬間も振り返ればおかしな行動だったと思うのだが、現在進行形では正当化されてしまっている。

冗談の境界と嘲笑の壁

経験を積む中で色々な人と出会い話をするようになる。その時、重要なのが話題だ。

何を話すか、どこから入っていくか、何を深く話すか。

それが十人十色違ってくる。何が刺さるか分からないからだ。

そこで大事なのが、冗談であり、ネタなのだ。真剣な口調、話題自体はしっかりしているのに、どこか冗談にも聞こえるような口調。ずっと真面目一辺倒では正直つまらない。退屈な人間だ。

だが、現状の自分は、正直この冗談の壁がどこにあるのか分からなくなっている。学生時代はふざけて冗談や嘘を頻繁に交えながら話をしていたつもりだが、社会人になって日常的に会話する人も減ってしまったし、同年代の同僚もいるわけでもない。

結果的に、冗談を気軽に言える関係の人もいないことで、キレというか、感覚が鈍化した。

真面目一辺倒でいれば良いという感覚に戻ってきてしまっている。

しかし、人間関係的には、壁を破るにはそこの冗談との境界を上手く理解していかないといけないし、上司は自然にそれを求めてくる。別に、それに応じることは容易い。だからこそ、危険でもある。そのお遊びについていくことは壊れた自身の感情では容易いのだが、それを他人が理解しているとは限らない。専ら分からないだろう。

その中で冗談を求められる。別にそれ通りに行動しても一向に構わないのだが、実際それが正解とは限らない。逆に場が白けることも十分にあり得る。

真面目にやっても報われなかった過去の経験が自分を嘲笑い、ちゃんとやるという感覚を隠してしまった。その中で「もっと前のめりになっても良いよ」と上司から言われれば、正直過去の自分をまた笑ってしまう。

これまでやってきたことか、と。

難しいことではないのに、その虚しさを知っているからこそ、嘲笑する。

だが、それをやれと言う人もいる。なかなか愉快なことではないか?

まあ、やればいいだけなのだが。


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