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押入れの中の人

 悪意がある方がまだいい。
 無垢な善意で傷付けられる事ほどやるせない事はない。

 駅に向かう人の列に並んで歩く自分が嫌になって、ふと、このままこの列から外れてみたらどうだろうかと夢想することがある。あるいは逆方向の列車に乗って何処か遠くの町へ行ってしまったらどうだろうかと。
 でも、夢想から覚めると、いつものように電車の中にいて吊り革に捉まりながら、車窓の遥か遠くに連なる山々を見ていたことに気が付く。
 そして、あの人々の列から逃れられない自分が嫌になる。

 毎日楽しそうでいいねと言われることがある。
 悩みなんて無さそうで。私は嫌なことばかりよ。
 そうやって同情して欲しそうな人に私は無意識に微笑みを返す。微笑みの裏では、目の前の無邪気な存在を殺したくなるくらいなのに。悩みがあると言い出せるだけマシなその存在を。
 そして自分が嫌になる。嫌なことを嫌と言えずに微笑むことしか出来ない自分を。

 自信があるんだね。私もそうなりたいわ。そうなれれば楽だよね。
 そう言って睨んでくる存在に私は、自信があるに決まってるという言葉を投げつける。本当は自信などある訳がないのに。自信があるように自分を勇気づけるのに精一杯なのに。そうしていないと崩れてしまう何かを必死で押さえた結果の、見せかけの自信なのに。

 ストレスなんて無いと思って生きていた。だから、そんな風な人と見られても仕方がなかったのだろう。でも、最近になってようやく自分で気がついた。本当はストレスがあることに気が付かないほどストレスにやられていたということを。

 身体や心を正しく保つ為に私が日常的に半ば無意識に行っていたことは皆同じ様にやっているものだと思い込んでいた。でも違っていた。
 正確に言えば、正しく保つ、ではなく正しく見えるように保つ為に、私は演技をしている。外すことのないペルソナを被って。その事に気が付いていなかった。

 いや、知っていたはずだ。
 本当の自分が別にいることを、とっくに知っていたはずだ。ただ、それが余りにも幼い頃、物心ついた頃からだったので当たり前だと思っていた。本当の自分は、あの時閉じ込められた押入れの中から出られないままだ。いい子にするからと叫んで出してもらった分身だけが、まるで自分かの様に振る舞っている。

 楽観的なのではない。
 楽観的であることに必死なだけだ。
 悩みがないのではない。
 悩みは全てあの押入れの中の人に押し付けて来ただけだ。
 怖いのも悲しいのも辛いのも、全てあの人に託して、自分は平気な顔をしていただけだ。
 本当に悲しい事に触れるとあの人が出てきそうになる。あの人が出て来たら大変だ。何が起きるか分からない。

 今日も肩と首が異様に凝っている。
 きっとあの人が泣いているのだろう。
 押入れの中のあの人が。

おわり

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