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日本には無い「社会」という概念

 長いものには巻かれろと言われるくらい、日本人は大きなものに従順で歯向かわない印象があるが、本当だろうか。どうせ何も変わらないから言っても無駄と思っているのではないだろうか。特段抗わない代わりに興味も無いということのようだ。それは諦めとも違って、ある種の無責任さなのかも知れないと思い始めている。

 国のために、社会のために、人様のために、そして会社のためにと思っている人がどれだけいるだろうか。私の印象では、そうした思考を持っている人は極めて少ないように思える。利他思考とまで言わないまでも、日常的に広い視点で考える機会はあまり無い気がする。もちろん、この私を含めて。

 大きな集団に身を捧げようと言いたいのではない。全体の中での自分の位置づけと役割について、大きな視野で見下ろす視点の話だ。そうした視点が無くても安住出来るのは、日本という国がある意味で全体として良く出来ているからなのかも知れない。日本人だけで生きていくには。


 何のためにそれをするのかという時に、自分が得する(損しない)ためにと考える癖が染み着いていないだろうか。自分の権利を口にする人はいても、「私たち」の権利という感覚は薄いだろう。デモやストが日本では白けて見られがちなのも、私には関係無いという感覚がもたらすのでは無いだろうか。

 人が自己犠牲によって道徳的に振る舞うことは本来は無いだろう。自分の遺伝子を後代に残す使命があるのだから。しかし一方で、人類は社会という大きな組織を作ったことで地球上で繁栄することが出来たと説明されることがある。独りだけでは生きられないからだ。社会があることで人類は、種としての遺伝子を残すことに役立つ。

 社会の作り方は日本と諸外国では違っていて、社会に対する捉え方も異なる。どちらが良いとか悪いとか言うことではなく、それぞれの特質があるということだ。
 もっとも、社会という概念は西欧のもので、この「社会」という日本語は英語の society の訳語として明治時代に作られたという。となれば、少なくとも明治時代前には日本には「社会」はなかったのである。それまで日本にあったのは何だったのだろうか。

 社会 society という言葉が意味するところは何だろうか。ロングマン英英辞典では次のように書かれている。

1 people in general, considered in relation to the laws, organizations etc that make it possible for them to live together.
(共に生きることを可能にしている法律や組織などとの関係性における世間一般)
2 a particular large group of people who share laws, organizations, customs etc.
(法律、組織や習慣などを共有する特定の大きな集団)
3 ……

※記述は3以降も続くが、より狭い意味になるので省略した

ロングマン英英辞典より

  最初に挙げられた二つの意味は、多くの人の集まりという点では似ているが、どちらにも法(law)という記述があるのが興味深い。ここでの法は、必ずしも国家の法律ということではなく、体系化され従うことを義務付けられた規則といったような広い意味も含むのであろう。
 ともかく、英語で言う社会 society は体系化、組織化された多くの人の集団を意味すると考えて良さそうだ。そうであるならば、社会という日本語が無かった江戸時代にも、広い意味ではいわゆる「社会」があったと考えて間違いではないだろう。

 では、江戸時代の人々は今で言う社会のことを何と呼んでいたのか。
 Wikipediaの社会の解説ページによれば、「世間」や「浮き世」と言われて いたのではないかということだ。
「世間」の語源は古くはインド、そして仏教の概念を経て一般化された日本語で、壊れて移ろいゆく世界というような意味らしい。煩悩などのけがれに汚染された、この世界の全ての存在を指すという。
「浮き世」は仏教の「この世は苦しみに満ちている」という考え(厭世観えんせいかんというらしい)に基づいたものという。
 どちらも、社会というよりは「この世」を表した概念のように思える。その前提として「この世」は人間が作ったものではなく作られたものという考え方が見えてくる。これに対して佛や菩薩の世界は出世間しゅっせけん(出世とはそういう意味だったのか)と呼ばれ娑婆とは異なる様相になっている。

 西欧で言う「社会」の主役はあくまでも人であり、人によって造られているものであるのに対し、古くからの日本での「社会」の見方は、既にそこにある世界という、宇宙規模の諦観が感じられる。
 人知を超えた存在として神を据える西の宗教と違って、仏教の世界観には人知を超えた宇宙がある。この世は形を変えながら儚く移ろっていくもので、それでもそこにある。苦しみに満ちてるかも知れないが、それも移ろいのひとつ。世間から飛び出して佛の世界に行けば(つまり普通の人の場合は亡くなれば)、そこには世間にあるような苦しみも移ろいもなく、あらゆる執着から解き放たれた世界がある。壮大な話だ。

 こうした仏教的な視座に立つと、社会に対して文句をいうということは無為なことのように思えてくる。所詮、煩悩にまみれた人間が、狭い視野でものを言ったところで涅槃への道は遠のくばかり。
 あらゆるものを区別してそれに執着することで、真実が見えなくなった無常な世界。それが世間だという。
 真の意味での仏教を身近に感じることは少なくなったが、日本人の心にはきっと、こうした仏教観が根ざしているのだろう。
 そこに取って付けたように「社会」という概念を当てはめようとして150年以上が経つ訳だが、日本人の歴史はそれよりも遥かに長い。そう簡単に社会が根付く訳もない。形式ばかりは西欧化した現在、精神性の奥底に眠る日本的なものがあるからこそ、日本的な文化や社会が繁栄してきたのだろうし、ある意味でもう一度その日本的なものに、私たち日本人自身が目を向けるべき時期なのかも知れない。

おわり


 

 
 

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