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パラリンピックの凄さを感じた話

 私は泳げない。
 公式には、幼少時のちょっとした事故によって生じたトラウマによる水恐怖症と言う事にしている。
 勿論それは嘘ではないが、そんなことは泳げない理由にはならない事もまた事実だ。
 それはパラリンピックの競技を見ていれば分かる。


 昨日パラリンピックの試合を見ていた時、選手がこの舞台に立つまでの道のりを、ふと想像してしまった。

 身体障害は、競技に関わる時間のみでは無く、常に付きまとっているのだ。それは、起きている時も寝ている時も、学校に行く時も仕事に行く時も、買い物に行く時も友人と合う時も、片時も離れずいつも一緒に居るものだ。
 競技の練習はさることながら、普段の生活の全てが障害と関わっている。身体のみならず、社会的にもみんなと同じ条件に立てず、常に後ろの方に作られた別のスタートラインに立たされているのだ。

 社会の仕組みがどれほど平等になったとしても、全ての人間に等しく与えられているはずの時間ですら削られて、不利な立ち位置に置かれている。同じ事をするにも健常者よりも時間がかかるからだ。



 オリンピック選手が、周囲の人達の支えが無ければこの勝利はありませんでした、皆さんのおかげですとインタビューに答えるが、パラアスリートはその比ではないだろう。周囲の支えが前提条件になる。
 これは良し悪しの話ではない。
 つまりパラアスリートに比べてオリンピックアスリートが大したことがないと言うのではない。

 サポートが必要な人にはサポートがあって当たり前と感じられる社会が理想だと改めて感じた。
 
 周囲の人達を大勢巻き込んでしか成立しない事と言うのは、実は誰にしたって同じ事で、障害者の場合はその事が見え易いというだけだ。誰しも多くの人の手を借りなければ社会で生存する事は出来ない。健常者の場合はそれが見えにくいだけだ。

正直これまではパラリンピックはあまり見なかった。関心が無かった。なぜ障害者同士を戦わせる必要があるのか分からなかった。

 しかし自分の子が大学生になった今、パラリンピック競技を見ていると、そこに競技者の親の視点が入り込んでくる。当人達は口に出して多くを語らないかもしれないが、私などの想像を遥かに超える体験をされて来たはずだ。
 身体障害を持っているというだけで、どれほど社会の障害まで抱え込まされて来たことか。それらとの共存を続けながら競技に取り組み、世界の舞台で活躍するということが、どれほど凄いことか。どれほど素晴らしいことか。
 親としてのあり方にどれほど苦悩してきたか、サポート出来る事の限界にどれほど向き合ってきたか、立ちはだかる社会の壁にどれほど直面してきたか。呑気に生きているだけの私などにはとても想像できない。
 でも、彼らにとってはそれが現実であり、生きている証なのだ。成果を闘わせる場があって悪いはずが無い。みなやっている事だ。


 私は泳げない。
 もしかするとそれは水の中だけの話ではないのかもしれない。
 言い訳をして、泳げないという事実と向き合わずに生きてきた私は、健常者に有利な社会であるということの上で胡座をかいているだけで、何ら社会と向き合って来なかったのだろう。

 では泳げるようになりたいかと問われれば、正直に言うと、いまさら泳げなくても良いと答えるだろう。
 こうして私は社会を直視できないまま、画面の中で奮闘する競技者に勝手に思いを馳せて涙しているだけだ。
 距離をおいて高みの見物を決め込む卑怯な存在だ。
 けれど、今回のパラリンピックで、彼らの想いの存在に気づけた事は大きな収穫だったと思いたい。

おわり


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