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信じる者は

 最初にお断りしておかねばならないと思うが、私は典型的な日本人的無宗教者とは違って、筋金入りの真の無宗教者と自負している。
 大抵の日本人は無宗教とは言いながらも、死んだら寺の墓に入ることになっていたりして、つまりは無宗教のフリをした仏教者だと私は思っている。仏教者で無かったとしても、神道に通ずる心を持った人は多くて、正月にはこぞって宮参りをしているではないか。

 その点私は、そういったしきたりや風習のいずれにも組せず、入る墓も無ければ七五三とも無縁で、当然初詣も行かないし、ミサや礼拝には行かないし、メッカへの巡礼もしない。
 つまり筋金入りの無宗教者と言うわけだ。

 信心深さと無縁なそんな私のことを他人は情に薄いとか、墓参りをしないとは先祖に失礼だとか言うが、参る墓が無いのだから先祖もへったくれも無い。
 もちろん、ここに私がいる以上、祖先はいるのであって、脈々と続いた遺伝子の流れがあるわけで、その意味では先祖を敬おうという動機がある。動機はあるが、墓のように形を成すものが無いと不思議なことに「先祖」という実体が心に浮かび上がることはないのである。

 そんなバリバリの無宗教者である私が宗教心を持ち合わせないかと言えば決してそんなことはない。というのも、宗教の存在意義は何となく理解できるからだ。もちろん私なりの独りよがりな解釈でしかないが、宗教って必要だよなとか、日本人ももっとちゃんと宗教に向き合った方がいいんじゃないかなんて、自分のことは棚に上げて他人ごとのように考えている。

 だから、信じる者は救われるというがホントにそうだよなと思うのだ。
 信じると言っても、神様の存在を信じるなんて大袈裟なことではない。宗教の教えを取り敢えず信じて実行してみればきっと幸せになれるだろうということだ。
 宗教の教えの全てを私が知る由もないが、教えというのは大概が良いことを言っているし、核心を突いているというか本質的な事である。
 ものすご〜く単純化して言えばこうなる。
 良いことを生活の中で実践し続ければ、本人はもとより周囲の人も心地良く生きられるはずだ。その挙げ句に幸せな人生が待っているはずだ、という構図だ。

 ここで重要なのは、良い教えでも守り続けなければ意味がないということと、人間同じことを続ける事はムズカシイということだ。
 だから、続けるためのガイド役として宗教家やメンターが必要になるのだろう。つまり自らの強い意志で良き人間を続けられるのであれば宗教はいらないということになる。

 では無宗教者の私の場合はどうか。
 強い意志で良きことを遂行し続けることが出来るだろうか。
 答えは否だ。
 優柔不断で飽きっぽく、人間的良心が欠落していて視野の狭いおっさんにそんなことは出来るわけがない。
 だからいつまでも開眼できないことだらけなのだが、大筋では不幸のどん底というわけではなくまずまず幸せな部類であるので、さらなる追究をするまでもないと思ってしまう。

 でも、信じ切って身を委ね、その道をひたすら行くというのは、考えようによっては楽だろうなと、少しだけ宗教を持つ人が羨ましくなる。

おわり

 


 

 


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