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映画かドラマか

 映画かドラマかで言えば私は断然映画派だ。なぜだろうかと考えてみると、ドラマよりも映画の方が非日常感があるからだと思う。話の舞台設定だけを見てもドラマは日常に近いところにある。時代劇にしても頭の中で変換されるのか、あまり非日常感を抱かない。来週につづくというのも、日常と並走している様な錯覚を生むというか、日常のスケジュールに組み込まれる感覚がある。もっともこれは、日本のテレビドラマの場合だ。

 海外のドラマなら登場人物も風景も非日常そのもので、俳優も知らない人が多い。ストーリーも日本のドラマよりも非日常的なものが多い印象だ。
 さらに、サブスクのストリーミングであれば、つづきはまた来週と言わず体力がもつ限り見続けられるから、そうなるともはやドラマというより超長編映画みたいになる。

 映画の場合は、映画館に行く事自体が非日常であるし、大きなスクリーンと大音量を暗闇の中で浴びるという、没入を強いる鑑賞環境が周到に構築されているから、たとえ内容が日常に近いものでも強制的に非日常に連れて行かれる。

 映画鑑賞で好きなのは、始まる前のワクワク感と見終わってシアターから出て行くときのあの戻って来た感だ。
 シアターに入るとともに、音が吸い込まれていくデッドなあの空間に包まれて、さっきまでの自分が吸い取られていくような感じ。上映が始まればパリッとズシッと迫りくるあの映画の音に包まれるのが美味だ。 
 そして映画が終われば、トリップして別世界に行っていたところから急に現実に引き戻されて、それでもどこか自分が別の何かになったというか、映画体験を経て少しだけ無敵化した気になるところだ。何となくふわふわした感じがしつつ、さっきまでの映画の中の世界が微かに蘇ってきてじんわりと現実に融合していくところだ。

 何百人者人たちが関わり、途方も無い金額を費して制作される映画という娯楽がいつまであり続けるのか分からない。サブスクをテレビ画面で見るという視聴環境を映画と言って良いのか。気が向いたらコーヒーを入れに行くことも途中で一時停止してトイレに行くことも出来る。没入することを強いられる映画館の環境と比べると自由度が高いことが映画というメディア体験を劣化させることになっていなければ良いが。

 創られる過程が違いすぎる映画とテレビドラマを比較することが間違っているというむきもあるかもしれないが、ネットで配信されるこの種のメディアは、もはや映画だドラマだと明確に区分するのはそぐわなくなって来ているだろう。制作も配信も行うNetflixが作品を創る動機は、新しい顧客を獲得するための話題性と、一度捕まえた顧客を逃さないこと。この目的が達せられればフォーマットはどうでも良いだろう。

 今の人なら、映画館では早送り出来ないから困ると言い出しかねない。2時間も暗闇で座っていなければならないのは合理的ではないと言われて映画館は廃れて行くのだろうか。それともあのリッチでゴージャスな空間は残っていくのか。おっと、つい古臭い表現を使ってしまった。今どき映画にワクワクする人なんていないか。

おわり

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