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社員は会社に何を提供し、何を提供されるのか
労働基準法の考え方は恐らく、労働者は時間を提供する代わりに対価を得るというものだろう。
だからこそ、労働時間を管理せよと強いて来る。
労働時間を管理することに一生懸命になった挙句に、管理したくない労働時間、つまり会社は見たことにしたくない労働時間、いわゆるサービス残業が発生したりして問題になった(なっている)。
サービス残業の不思議は、その言葉通り、会社から指示を受けていないにもかかわらず社員自らが率先してサービスをするという建前がいつの間にか出来上がって、そのことについて誰も文句を言わなかった点だ。
もちろん、文句を言わなかったというよりも言えなかったというのが正しいのだろう。サービス残業は、終身雇用と年功賃金への忖度の強要だったのだから。つまり、「最後まで雇ってあげるんだからそれくらいサービスしてよ」という会社(というか社会)の暗黙のお願いに社員自らが、「そうですよね。サービス残業は雇用が維持される社会の仕組みの必要悪ですよね」と従っていたということだ。
そこでは、会社対従業員という枠組みというよりも、終身雇用年功賃金とセットの下で社会全体がサービス残業を是とする空気であったというのが正解に近いのではないか。
ところで、労働を時間で管理することは間違いでは無いにせよ、会社にいる時間が長ければ良いというものでは無いのも事実。
しかしながら、昨今言われるように、時間ではなくて成果で労働を測りましょうという、時間と成果の二元論にも疑問が湧く。そもそも労働時間に制限を掛けるのは、従業員の健康を目的としたものでは無かったか。
成果を追う代わりに見えない時間が増えるのを許容するのだとしたら本末転倒だからだ。
努力すれば報われる、時間を掛ければ掛けただけの見返りが期待される、というのがまやかしであるのと同じように、人の成果を正しく測れるというのもまやかしだ。
機械的に実施できるような成果の測り方を予め示しておくのなら良いが、結局のところ上司の恣意的な判断で成果を評価されるとしたら、そんなのは成果主義でも何でも無い。
労働時間を管理するのも、成果を評価するのも、元を辿れば会社という仕組みを機能させるためだ。会社は社会に対して何らかの便益を提供し報酬を得る。その報酬を社員などに分配する。
その仕組みにおいては、社員一人ひとりの働きも、社会の便益に繋がって、かつ、報酬を得るのに値するものでなければ成り立たない。
つまり会社は、個人が社会と繫がるための組織の一形態というわけだ。
組織は得てして自己目的化しがちだ。
上司は保身を図り、組織は自己都合を優先し、会社は利益に目が眩む。
その一方で、社員は時間と能力を安売りし疲弊している。
安売りになってしまうのは、どこにでもあるものだからだ。単純化された労働は高くは売れない。希少価値があるものほど高く売れるのは物も労働も同じだ。
大して働いていないのに高給を貰っている上司がふんぞり返ってはびこるのは、その会社が社会の利益を追求するのではなく、自らの組織を維持するために存在するようになってしまったからだ。そのような会社では、社会に対する仕事の成果よりも政治力がものを言う。中でも内向きの政治力が強くなり始めたら末期症状だ。何かを期待するだけ無駄というものだ。
社員は会社に過度の期待をしたり依存をするよりも、社会に何らかの利益をもたらすことを目指し、そのための道具として会社を利用するのが良い。
おわり
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