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枠の中のオリンピック

オリンピックが開幕して1週間。
大会日程に合わせて各国からの選手団が続々と日本を訪れているはずだ。

海外の選手が到着している先は我が国のはずだが、遠くの国の事のようで、オリンピックが開催されるという実感がまるで無い。

本当に選手達はやって来ているのだろうか。

選手達だって本来ならオリンピックついでに日本で買い物とか観光とかしたかっただろうに、選手村に隔離されていては愉しむどころでは無いだろう。
たとえ東京オリンピックに参加した記憶は残っても、日本の記憶は残らないだろう。
選手達は日本について何も知らないまま帰って行くことになるのだ。

それは報道の記者やカメラマンだってそうだ。

何万人もの外国人がやって来ているのに、都心に通勤している私ですら、その気配を感じないとは何とも気味が悪い。

全てはテレビという箱の中にしか無い。
箱の中のオリンピック。

壁一枚隔てた隣の家のことはあまり良く知らないというような都会のマンションに住み慣れた人にとっては、そんな近くて遠いオリンピックにだって違和感がないのかもしれない。

オリンピックをテレビで見ている海外の人にとっては、選手村に選手が隔離されていようが、無観客だろうが、大して変わりないだろう。
私たちもテレビで見るオリンピックに慣れ過ぎていて、とくに私にしてみれば、どうせチケットが当たっていたわけではないし、無観客だろうがそうでなかろうが、結局テレビで見るだけなので同じことなのである。

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オリンピックに限らず、テレビもそうだし、インターネットもそう、我々は枠の中を覗き込むことで、あらゆるものと日々接していて、それが現実だと思い込んでいる。
仕事だって、ただでさえメールのやり取りが多くなっていたところに、リモートワークとか言って全て枠の中に押し込められてしまった。
画面の向こうには、どこかで別の画面を見ている人がいて、文字や映像や音声をある意味共有しているのだから、きっと枠自体が悪いのではない。
でも考えてみれば、人間の営みはあらゆるものをどんどん枠の中に収めることで成り立ってきているように思えてくる。現実に起こっている場所から隔離された場所で枠を覗き込む仕組みになっていっている気がする。

工場だって、昔は現場に人が立っていたようなところも、今では多くが機械化されていて、機械が動いている様子を遠くのコントロールルームにある枠を覗き込んで監視している。

自働車だって、閉ざされた自分だけの空間に座って、フロントガラスから見える景色を覗き込んでいる。実際の物理的距離に比べて外と内の心理的距離があるからこそ、運転すると性格が変わるというようなことが起きるのではないか。

建築現場や弁当工場など、直接人の手が触れる場所も残っているが、それでも何らかの画面を見る機会が以前に比べて増えているだろう。

枠を通して現実と繋がることで現実との距離を取る仕組みは、養老孟司氏が言う「脳化」の一種ではないかと思ったりする。(※)

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確かオリンピック期間中は試合時間に合わせた観客の都内移動が通勤時間帯に重なるため、通勤制限のようなことが行われるとか言われていたが、無観客開催の今になってみれば、どこか虚しい気持ちになる。
人と人との接触を極力少なくしろという圧力は、脳化の営みの延長線上にあったとすれば、感染症が無くともいずれやって来たものなのかもしれない。

おわり

(※)脳化については『唯脳論』で解説されている



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