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視界不良の先にあるもの

 身の回りの便利が一つ増えるごとに私達は少しずつ視界不良になって行く。それまで見えていたものを見ずに済むようになることで視力が退化するようなものだ。
 冷蔵庫が無かった時代、それは僕も知らない世界だが、その当時は食品の保存方法についての沢山の知恵を皆が共有していた。スイカやビールを湧き水のせせらぎに漬けてマイルドに冷やすことで美味しくいただける生活の知恵があった。
 炊飯器が無かった時代、電話が無かった時代、掃除機が無かった時代、洗濯機が無かった時代、テレビが無かった時代、エアコンが無かった時代、パソコンが無かった時代、そしてインターネットやスマホが無かった時代。そういった時代を経るごとに私達はそれまでは普通に持っていた能力や知恵を便利な道具に明け渡してきた。それは能力や知恵をお金で買うことを意味している。自分は出来なくても、知らなくても、お金さえ払えば手に入れられるから、お金こそが大切だと思いこむようになった。
 醤油が切れたらご近所に借りに行くのではなくコンビニに買いに行く。ご近所に声を掛けて一緒に夏の夜の花火を楽しむこともない。
 田植えや稲刈りの無い都会でもご近所の繋がりはそこそこあった。
 あら、今日はどちらまで? と声を掛けられる事だって普通にあった。
 そのようなお金の絡まない関係性は、お金で何でも解決できる便利な社会に浸食されていった。

 そうやって、過去には見えていた世界は見えない世界に置き換わっていき、私達の視界は道具がなければ手の届く範囲しか見えない程になっている。その霧は晴れることは無い。その逆に視界は狭まり続ける。
 便利になるほどに視界不良が進んでいる。

 便利になって視界が狭まっているのは味覚や嗅覚、すなわち味わうことについても同様だ。日本には弁当やレトルト、インスタント食品といった便利な食材が溢れていて、出汁だしの香りや味から、塩味、甘味、辛味、そしてあぶらの味への美味しさの感度が変化している。ダイレクトに伝わる味が好まれ、深みのある淡い味覚は感じることすら出来なくなっている。つまりこちらも視界不良だ。

 漢字に代表される日本の文字文化についてもそうだ。読み書きの力は恐らくかなり落ちている。書けない漢字が多いのはもちろん、長い文章を読むのも書くのも苦痛という人が多い。本を読んで過ごす代わりに、動画と過ごす時間が圧倒的になっている。見れば分かる動画の便利さ面白さは過去にテレビが爆発的に普及したことからも分かるだろう。今ではそれはよりパーソナルな嗜好を満たすものになっていて、もはや家庭でのチャンネル争いは無い。皆自分のスマホを覗き込むだけだ。

 使い捨て文化もすっかり定着して、壊れたら直すから壊れたら捨てて買い直すに変わっている。愛着のある品を手入れし修理しながら長年使い続けるというのは流行らない。すぐに壊れてしまっても百均だから捨てても惜しくない。必要ならまた買ってくればいい。
 そしてまた、手入れの仕方や修理の仕方は覚える必要の無いことになって葬り去られた。

 便利な方が良いに決まっている。その価値観は否定し難い。
 不便な方が良いなんてことはある訳がない。
 だからこれからも私達の視界は狭まることはあってもその逆はありえない。
 視力も聴力も、そして嗅覚も失った猫には噛みつく歯と引っ掻く爪しか残らない。
 辺り構わず噛みついて引っ掻きまくる人がいたら、進化の行き着く道を先取りしたのだと思うことにしよう。
 決して見たくはない進化だが、その時には僕の視界も限りなく狭くなっているから、碌々ろくろく見えないのだろう。

おわり

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