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Netflix他『ある日〜真実のベール』

 人間の思い描く未来予測は裏切られることの方が多いのが常だろう。私たちは過去から未来へという勝手な時間軸を想定し、因果関係なる連続性をそこに当て嵌める事で、これから起こるであろう事をまるで真実かの様に創造(想像)する。
 しかし、ある人にとっての当たり前が他の人にとってはそうで無い様に、あなたにとっての真実は決して普遍的なものではない。だから、安易に未来を決め付けない方が身の為だ。

 ごく普通の真面目な大学生がありきたりの学生生活を送っていただけなのに、ひと晩にして殺人事件の容疑者として逮捕され、裁判のはてに死刑を求刑される羽目になる。当然本人は、自分が殺したのではない事を知っているのだが、本当にやっていないのだからきっと信じてもらえるというその当たり前の期待はことごとく通用しない。
 警察、検察はおろか、マスコミ、そして民衆らは皆、凶悪犯罪者としてバッシングの目を向ける。家族と、ひとりの三流弁護士を除いては。

 やっていないことを立証するのは難しい。立証には少なくともアリバイが必要だ。その日のその時間、あなたは何処にいましたかというあの問に答えられなければならない。しかしアリバイが無いからと言って自分は本当に犯人ではないのだから分かってもらえると人は思いがちだ。
 でも、浮気どころか異性と並んで歩くことすらしていないのに、配偶者に浮気を指摘されたらあなたはどうやって言い訳をするだろうか。やっていないのであれば言い訳という言い方はおかしい。しかし何を言おうとも言い訳にしかならないのも事実。一体どうすれば分かってもらえるのだろうか。
 
 日本でも冤罪をテーマにしたドラマや映画は過去にあった。日本では起訴されれば99.9%が有罪と言われているから、裁判になってから覆すのは絶望的に難しい。韓国でも似たようなものだ。
 死刑囚が再審で無罪になったという話を時々聞く事があるが、死ぬ間際の年齢まで刑務所で生きてから無罪になったところで嬉しいだろうか。理念としては良かったと言える事だろうが、現実的には死ねと言われるのとあまり変わりはない。
 どこで何をしていようが関係ない。冤罪で捕まったら人生詰んだと同じだ。弁護士の執念で有罪を阻止できるというのは理想的な願望に過ぎない。つまりドラマの中だけの話だ。しかも、目を見れば犯罪者かどうか分かると言う様な胡散臭うさんくさい弁護士であれば尚更なおさらだ。
 
 でも、それでいい。
 ドラマのような現実が起こりうると思っているからこそ私たちはドラマを楽しむのだ。
 三流弁護士が人間味溢れていて、一流弁護士がカネと名誉に目がくらんでいるなんて、ありそうで無いことなのだから。きっと。

おわり


 

 

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