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映画『ドライブ・マイ・カー』
感情と言葉と思いは全てちぐはぐで噛み合わない。そこに気遣いが入り込めばことは複雑になる。
普段私たちは言葉によって会話していると思っているし、言葉によって思いが伝えられると考えている。では、感情や思いを取り除いた言葉だけで何かを伝えることが出来るだろうか。言葉だけのやりとりに内在するコンテキストから、感情や思いが立ち昇ることがあるのだろうか。もし、言葉そのものにそこまでの力が無いのだとしたら、私たちは言葉に何を託しているのだろうか。
言いたいと思いながら口に出せないことや、頭では分かっているつもりでも感情に突き動かされてしまうことがある。特に過去の出来事は今の私たちを縛り続け、前を向くことを妨げようとする。私たちを導くのはいつも言葉だ。正確に言えば、言葉に託された何かだ。
もし言葉が、思いを誤解なく正確に伝えることが出来る道具であれば、そして、その時の感情を正しく表現出来るものであれば、私たちのコミュニケーションはもっとスムーズなのかも知れない。
愛情を素直に伝えたり、嫌なことを嫌だと伝えたり、後悔を自ら受け入れることが容易でないのは、そのことによって何かが変わったり、何かが壊れることを恐れるからだろう。言葉にした途端、思っていたことと違う何かになって相手に伝わり、誤解の種になることはいくらでもある。
でも、私たちはきっと大丈夫なのだ。
国や言葉や生まれや育ちの違いは大した違いではない。人は皆、どっちみち最後は死んでいくことしか出来ない。取り立てて違いを意識したり、あら捜しをする必要はない。そんなことをしたら駄目だ、そんなことを言ったら駄目だと心配し過ぎることはない。
手を取り合って前を向いて進んでいくことしか出来ないのは人間みんな同じなのだから。全部をひとりで背負う必要はない。時折後ろを向くのも仕方がない。目が見えなくなって運転が出来なくなったら、誰かに代わって貰えばいい。
誰かが誰かに影響を与えながら人と人が織りなす布は、複雑に絡みあいながら紋様を浮かび上がらせていく。
この映画を観ていて、理屈やストーリーとは全く関係なくふとしたシーンで込み上げてくるものが何度もあったのはなぜだろうか。
大雑把に言えば、前半は話の中心となる人物の背景描写、後半は劇中劇を作るプロセスと結果。劇的なドラマに慣れた人にとって、淡々と進む物語は退屈かも知れない。結末がはっきりしなくて分からないと思うかも知れない。
しかし何も難しく考える必要はない。
上映の3時間、登場人物と一緒の時間と空間を過ごすだけで良い。そのことだけで良い。
おわり
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