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教育は仲間を作るのに役立ったのか

 戦後の日本の教育はものづくり産業を支える工場労働者を育成するのに役立ったと言って良いだろう。しかしその後の人口増と工場自動化により、工場での労働力需要はかつてほどでは無くなる。
 日本経済発展に伴って家計に多少の余力が生まれると、学習産業が台頭してきた。いわゆる学習塾だ。その普及は、今どき大卒は当たり前、大学くらい誰でも行くという社会の空気感を醸成して行った。その結果、今や高卒生の半数以上が大学に進学するようになった。

 その流れの中で問題があったとすれば、大学に多くの学生を送り込むようになったことそれ自体ではない。
 問題は、学生が何のために大学に行くのか、大学に行くとどんな未来が得られるのか、といった事について、誰も新しい未来を提示しなかった事だ。
 大学入学がゴールになって、就職するまでの余暇を過ごす場所にしてしまった事だ。
 そしてもっと問題なのは、大学に行かなかっただけで社会のレールからはみ出す事を余儀なくされることだ。

 大量の大卒者が生産され企業に送り込まれる仕組みは、その企業の色に染めながら使える人材として育成していく事が目指された。
 現在では大企業の仕事も大量動員による大量生産といった労働集約型からホワイトカラーの知識集約型が主流になった。
 しかし大学進学者が高卒者の半数を超えていながら知識集約型の仕事が出来る人材の育成は、実質的に学生時代には行われていない。部活やバイトの経験者らが辛うじて組織での仕事をするための社会的な会話に慣れている傾向があるが、それ以外は、日常的な大人同士の会話レベルのコミュニケーションすらままならない学生がかなりの割合でいる。つまり大卒でも使える人材であるとは全く言えないのだ。

 話が大きく飛躍するが、大学にまで行っても社会に役に立たない人を量産するようになってしまったのは、私たち自身が何のために生きているのかといった根源的な問を発しなくなったことが影響しているのではないか。政治を含め社会について隣人と語り合わなくなったことも遠因だろう。

 生きる意味を問わなくても社会は機能するし経済は回る。しかし構成員たる人間の、その人間性は摩耗する。人間性の摩耗は社会の劣化を招く。ここでの社会の劣化とは、皆が打算的になって己の利益のみを追求することから始まり、その事を皆が是とすることで最終的には個が崩壊していく状態を指す。本来、個は社会から独立して存在することは出来ない。それを個が個として存立出来ると思い込んだとしたら、それはもはや個ではなく、ただの孤独だ。

 社会との繋がりを失った個人は、自分さえ良ければ良いという以外の価値観を持たなくなる。他の人など視界にはなく、敵としか思えない。
 自分はそんなことはないと思うかもしれないが、沢山いるSNSの友達が孤独の埋め合わせだとしたらどうだろうか。
 社会との繋がりがあるかを確かめるには、親族以外に腹を割って付き合える仲間と呼べる人がいるかどうか考えてみると良い。

 小学校の頃に、相手の立場に立って考えようと教えられたはずだ。自分さえ良ければという行動原理は、それとは正反対だ。そうだとしたら小学校で教えられた道徳は数ある科目のひとつに過ぎず、身になってはいないということになるだろう。
 教育を学校という閉鎖空間に押し付けることによって、親を含めた全ての人々が無関心になることが社会の劣化を助長しないようにしたいものだ。

おわり

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