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映画『アジャストメント』

 デジャヴュを感じた時、もしかしたら定められた運命に誰かがいたずらをしようとしているのかも知れない。そう思うことがある。
 
 どう足掻いても私たちの行く手は大いなる何かに定められていて変更不能だと私は思っている。人はそれを運命と呼ぶ。
 人が理不尽とも言える不幸に見舞われた時、私はそれを運命だったと理解することでやり過ごす。偶然とも思える出会いも、再会も、そして偶然の重なりも運命と思うことにしている。というより、運命を感じると言った方が良いだろう。

 その運命が誰かによって調整されているとしたら。
 もともと定められた運命から外れそうになると、何かの力によって軌道修正されているとしたら。もしそうだとすれば、軌道修正させなければ運命は変えられるはずだ。そう思う人がいてもおかしくはない。
 それでも、運命に逆らった結果予測不能の未来が待っているとしたら、躊躇する人が多いのではないか。よほどのことが無い限り。

 10年以上前の映画でもこうした題材は色褪せない。なぜなら人は運命を感じながらもそれに逆らいたいという欲望を持っているからだ。それは夢物語かも知れないが、重大な決断を迫られたときに直感に頼ることが許されることなのか、その指針にもなる。運命を操っているのが誰なのか、どの道を進むのが良いのか、主人公は与えられた運命を背負えるのか。道を反れた先には何が待っているのか。
 個人的な葛藤が世界を左右すると思ったら潔く運命を受け入れて欲しいと思うが、主人公を演じるのはマット・デイモンだ。一筋縄ではいかない。

 結果論で言えば全てが運命だったと言ってしまえばそれまでだ。
 運命なのだとしたら過去の自分の決断を後悔することはない。なぜなら変えようの無い運命だったのだから。
 しかし、もし運命を変えるチャンスが自分にあったとしたら、全てを運命のせいには出来なくなる。選択の自由と引き換えに後悔を背負う責任を負うことは、どうやら私には出来なさそうだ。

おわり
 

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