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多様性なんてホントは無い

  違いを省いて同じ部分を抽出すること。人間が得意なことだ。文字も数字もみんな、同じ部分を抽出する為の道具。
 「それは個人の自由です」と敢えて言うのは、個人の自由なんて本当は無いからだ。自由という言葉が意味するものは、世界に散らばる沢山のバラバラな自由のうち、憲法や法律で認められた限定的な自由のことで、そもそも自由を自由という言葉で表現した時点で、自由という言葉の持つイメージに限定されてしまう。

 マスク着用は自由です、なんて至極当たり前の事を敢えて言うのは、マスク着用の不自由とセットになっている。着用するかどうかを個人が自由に決められない事情がある。そんなもの端から自由だったはずなのに。けれど自分で決めることを放棄してしまっているから、誰か決めてくれ、となる。確かに、誰かに決めてもらうのも自由だ。

 この制服を着用しなさい、適切な髪型はこうですと言いながら、個性の大切さを説く。協調性が大切と言いながら、自由を説く。自分で考えて行動しろと言いながら、その外側には枠をはめる。身勝手と自由は違うと説く。
 つまり、社会には見せかけの自由しか無い。それこそが社会の規定する自由だ。

 そんな社会では、自分の事しか考えない人は駄目だとされ、何か不都合があれば自己責任と言われる。貯蓄より投資。投資は自己責任で。
 社会が求める答えに準じた行動が常に求められるから、そこには個人は育たない。見えないボーダーラインが何処にあるのかを探る事にエネルギーを注ぐうちに、口々に「個人の自由だ」という台詞を吐くようになる。

 異性を好きになるのが普通だよねという枠組みから、好きになる事に性別は関係ないし好きになるかどうかも自由だよねということへのシフト。本質的には何も変わっていなくて、分類が細分化されただけ。全部カメムシだと思っていたけど、臭い匂いを出さないカメムシもいるからそれには別の名前を付けよう。新種が見つかる度に新たな呼び名が生まれるが、それよりずっと以前からそのカメムシは世界に存在していた。

 いろいろ増えてきて面倒くさくなると、総称して多様性と呼ぶようになったりする。元々多様なものに対して多様性と言ったところで、実態は何も変わらない。多様性を尊重し差別を無くそうという「新たな」社会規範の広がりは、当たり前の事の言い換えで、不都合なものを地下に潜らせるだけ。見えなくして無かったことにするだけ。多様性なんてホントは無い。

おわり

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