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言葉と文字

 恐らく多くの人は言葉と文字は同じものだと思っている。言葉を記したものが文字というわけだ。
 しかし、話し言葉と書き言葉が異なるように、言葉と文字は根本的に異なる。次元が異なると言ってもよい。

 誰でも知っているように、言葉は最初、口から発する音として発達した。本当のところは誰も分からないのだろうが、動物の鳴き声に似た発声が次第に意味づけされて言葉になっていったというストーリーは分かり易い。
 人類はある段階で喋る言葉、すなわち音を記号化して石や土壁などに刻むようになった。それは最初単なる絵だったかも知れないが、絵と口述が一致した瞬間、絵は文字となり記録される道具となった。

 こう言えば単純なことだが、絵(文字)と現実にあるものを結びつけて、それを複数の人で同じ意味合いとして共有することは、抽象化のレベルが一段上がる上に情報伝達スピードが上がる。文字と文字を連ねて意味を創造することも出来る。

 それでも暫くの間、文字は複製が出来なかったから、多くの人に同じことを伝えるには、その都度書かなければならなかった。一部地域では木版印刷が使われていたものの、効率的とは言えず多くは手書きに頼っていた。
 活版印刷が凄いと言われるのは、それによって文字の生産性が一挙に高まったからだ。大量の文字が印刷され、情報は瞬く間に広がるようになった(当時比)。

 現代のようにPCやスマホなどの電子データによって大量の文字がやり取りされる時代になって、活版印刷とは比べ物にならないくらいの文字が流通し、記録されるようになった。
 ちょっと前まで、普通の人は日常で文字など書くことがなかったのだ。それが今では肌見放さずスマホを手にして、数分お気にメッセージアプリに文字を入力している。SNSに文字を入力している。

 それどころか写真や動画まで大量に出回っている。
 普通の人が写真を撮るのは旅行に行った時くらいなもので、写真を撮ることを趣味にしている人はちょっとしたオタクとしてむしろ煙たがられたくらいだ。それが今では、本当に猫も杓子も写真を撮りまくってSNS上で流通させまくっている。

 こうなると、文字も写真もそれまで持っていたものとは根本的に違ったものになる。日常的に特別なものでなくなるのはもちろん、じっくり深く読むものではなく、電波の如く流れていくものになった。極めて刹那的で、記号的で、ある種空気のような、あまり意識されないものになった。
 特に短文において書くことと読むことが日常になると、発して良いかどうか、相手が読んでどう思うかを考えるより先に手が動いて書いてしまう。そうやって書かれた文字は瞬時に相手に届き、時に読み手を傷つける。

 現状ではさらに進んで、日常の対面での会話がメッセージアプリ的になっている。言葉の応酬はスピード感が大事で、考えるよりも先に瞬発的に反応することが求められる。吟味したり相手を見たりする間もなく、記号が空中を飛び交う。

 かつては、面と向かって喋っている場合は、少なくとも相手の表情が曇るなどして気がついたものだが、SNS慣れした人類には表情を読むことは苦手なようだ。そればかりか、表情で伝えることも苦手だろう。
 電話が苦手なのもこれに近い。声の表情を捉えられず、単なる音声記号として受け止めるから、相手の言わんとすることが良く分からない。それに何よりも受け答えの経験値が少なすぎて会話が一方通行になってしまいがちだ。

 元々は音だった言葉が、今では完全に記号化して無音化している。
 ハラスメントになるからといって、言ってはいけないことのルールがどんどん広がるのはこうした背景が影響していると考えてしまう。

おわり

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