映画でしか表現出来ないこと
ドラマを見ていて改めて思ったことがある。
ストーリーを追うのがドラマだということ。
だから、ドラマではストーリーの良し悪しが全てだ。人と人が織りなす「ドラマ」を通じてストーリーが展開されるのを見ている人はひたすら追いかける。次はどうなるのだろうと思いを馳せて展開に期待する。そうやってドラマは進んでいく。
これは漫画でもそうだ。
ドラマや漫画では第○話という区切りごとに時間軸に並べられ、視聴者や読者はリニアに一方向に引かれた線の上を辿ることになる。これは1週間に一度というように明確な区切りがあることの必然だ。
それが小説になると、もう少し時間軸がルーズになる(連載小説以外は)。
小説という媒体では時間軸に囚われなくても成立する。目に見えるストーリー展開の描写だけではなく、行間を意識した描写も可能だ。つまり、直線的なストーリーでは伝えられない何かを描くことが出来る。それはさながら直線の上に立ち上がった面と言ってもいい。
これらに対して映画という媒体は、ストーリーに縛られずに表現出来るメディアだ。映画ではドラマ+αの表現が出来るということで、映画にストーリーがあってはならない、なんていうことを言いたいのでは全く無い。
それはさながら、線でも面でもなく立体だ。
だから単純にストーリーを追っていても理解出来ない映画が存在する。そもそも正解はひとつだけではなく、解釈の余地が残るという意味で芸術的な表現手法たりうる。
何が良くて何が悪いとか、小説やドラマは芸術たりえないということではない。言いたいのは、それぞれの特性を生かした表現をした方がいい、そうしないと勿体ないということだ。
余計なお世話であることは分かっている。
もう少し自分に寄せて言えば、3Dな映画をもっと見たいということだ。3Dと言っても立体的に見える3Dではなくて、ストーリーと行間と空間と情感と情景と、そして音像と映像といったような色々なものが折り重なって浮かび上がる映像表現のことだ。それが出来るのは今のところ映画しかない。
興行的成功を求めると自ずとストーリー重視な映画になって、小説や漫画が原作でそれを映像化した作品が多くなりがちだ。
しかし小説や漫画と映画は根本的に違う表現手法なので、まるっと移植しようとすると上手くいくはずもない。というか原作が勿体ない。映画でしか表現出来ないことを手法として存分に利用するような作品を見てみたい。
こんなことを思ったりするのは、世間に擦れたからだろうか。
分かり易すぎるものに物足りなさを感じるのは、捻くれ過ぎたからだろうか。
楽しいものを素直に楽しめないのは、年を取り過ぎたからだろうか。
映画館を回っていたあの頃を懐かしむのは、間違いなく年を取り過ぎたせいだろう。
おわり
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