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細月(さいげつ)

 夕闇迫る雲一つない茜色の南西の空に、ひっそりと月が浮かんでいた。そこに月があることで見ている自分が地球にいることを認識させられる。くっきりとシルエットになって美しい地上の風景に添えられた月は、細く鋭いながらも、沈んで行くのは時間の問題だ。その儚さを憂う頃には闇を深めた空に星が瞬き始める。

 暦を調べると月齢は4だという。月齢4の月は思っていたよりだいぶ細い。最初、三日月よりも細いと思って見ていたが、三日月は新月から三日目、月齢は2だと言うからもっと細く薄いのだ。イメージとはかなり違う。
 しかし夕暮れの空をこんな風に見上げるのは、いつ以来だろうか。秋の気配に、残暑の蒸し暑さが入り混じった空気の割に、澄んだ空は遠く冬をも感じさせた。

 星をじっと見上げていると、いつしか空に吸い込まれそうな感じに襲われることがある。地上に身体を残したまま、意識だけが大空に舞い上がって行く。大きな宇宙から見下ろすのは、僅かに曲線を描く水平線と、その手前に広がる大地だ。私の残像は遥か小さな点になって、斜め下から射し込む夕陽にきらめく塵と見分けがつかなくなってしまう。
 太古の人もきっとこんな感覚があったのだろうと思いかけたが、地球が丸いという常識も宇宙からみた地球の映像も見たことが無い太古の人の経験は、案外平板だったのだろう、と思い直した。

 空から見下ろす我が大地は、目の届く範囲の殆どが人工物で覆われていて、木や土や草花や鳥たちの姿は見当たらない。とうの昔から無かったかのように存在感を消している。こんなにも不自然な光景が広がっているのに、見慣れた目に違和感は無い。大人になってから虫に脅える感触を得たのは、それが成長というものなのではなくて、余りにも人工物に囲まれているからだったのだと気付く。犬や猫を気持ち悪がる人の気持ちが理解できずにいたが、根は同じどころにあるのだろう。

 レストランでは人に向かって注文し、人が創り、出来上がった料理を人が持ってくるのが当たり前だと思っていたが、いつの間にかタブレットで注文し配膳ロボットか配膳レールで席まで届くのが普通になって来た。人がいなくても成立する飲食店は、それを聞くだけなら近未来を思わせる。でも、その場に馴染んで便利さを堪能している自分に気付いたとき、空恐ろしくなった。そのうちに、食べているものすら人工物になってもおかしくない。

 キャンプに行っても都会の様な快適さを求めたり、ハイキング気分でまあまあ本格的な山に登ったり、店員に神のような対応を求めるのが当たり前に感じたら思い直した方が良いだろう。
 不便で不潔で不案内で、何が起こるか予測がつかないようなことの方が自然なことで、その真逆の世界に住む私たちの方が不自然なことなのだと。

 自然から生まれたはずの人間が、いつの間にか不自然なものに囲まれた世界を作り、それを快適と呼ぶようになった。その快適カプセルの中から環境問題を唱えるなんて、自然が溢れる国の人々から見ればちゃんちゃらおかしいだろう。

 月も星も、空から見ている。
 月食や流星などのイベントでもなければ見上げもしない人間たちを、今日も見下ろしている。お月さま、お星さま、そしてお天道様は、いつも宇宙から地球を見守っている。変なカプセルに引きこもっていないでと思っているかどうかは知らないが、奇妙な気分になっているに違いない。

 今日の月齢は5になる。
 きっと見た目のイメージは三日月だ。

おわり

 

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