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暇と退屈の倫理学、読み終わったので感想を書く

アイキャッチを目次にしてみた。「暇と退屈の倫理学」を読んで色々考えさせられたので、マインドマップで頭の中を整理した。使ったのはこちらのサービス。

目次みたいなアウトライン表示もできたので、ついでだからスクショをとって載せてみた!

今回は「面白かったこと」「自分で考えたいこと」「感想」の3部構成です。

面白かったこと

定住革命

2足歩行の初期人類が誕生したのが約400万年前。それから長いこと人類は「遊動生活」をしてきた。しかし約1万年前に氷河期が終わりを告げ、人類の生活環境も大きく変化した。温暖化が進み、森林が広がったことで、トナカイやマンモスなどの大きな獣を狩って食べることが難しくなったのだ。森林で狩れるのは、鹿や猪など小型の獣ばかりで、人類は植物や魚を食べていく必要に迫られる。そこで、やむを得ず「定住生活」が始まったのだ。

約400万年の歴史がある遊動生活と、たった1万年ほど前に始まった「定住生活」。私たちの性質は一体どちらに適しているだろうか?筆者はここで面白い例を挙げている。「トイレ革命」と「そうじ革命」である。遊動生活では、住んでいる場所が汚れたら移動をすればよい。排泄物やゴミは放っておけば自然に分解されたりするので、時間をおいて戻ればまた同じように生活できる。しかし定住生活ではそうはいかない。決まった場所で排泄して、ゴミをすてて、定期的に自分で綺麗にする必要がある。そこに習慣の違いがあるのだ。現代の私たちも、幼少期のトイレトレーニングは大変だし、ゴミを決まった場所に捨てたり、分別したりするのに苦労する。遊動生活のときの習慣にまだまだ強く影響を受けているということではないだろうか。

そして、遊動生活時代の習慣が、現代人の「退屈」にも繋がっている。遊動生活は、つねにストレスに晒される生活と言える。今日は動物を狩れるか?どこなら獲物がたくさんいるか?いつまで今の場所で暮らすか?次はどこに移動したらいいか?など、日々考えなければならないことが盛り沢山である。一方、定住生活では、拠点が固定され、計画的に食糧生産を行うため、生活に余裕がある。さらに言えば、遊動生活に適した能力の一部を常に持て余している。故に、退屈してしまうのだという。

私はこれまで、人類や社会が発達したことで定住生活ができるようになったのだと考えていた(著者が紹介している通り、このような考え方を持つ方が多いのでは?と思う)。その前提を覆される情報だったので、とても面白かった。

退屈に関する議論からは少し離れるが、定住生活が始まったことで貯蓄しているもの、貯蓄していないものの間に格差が生まれ、社会的不平等が発生したのだという。これも面白かった。定住生活によって、遊動生活のときとは違ったストレスにさらされるようになった、ということなのかもしれない。

浪費の意味

浪費:金などをむだに使うこと。

私のイメージする浪費は、辞書に書かれている上記のような意味を持つ。しかし、ボードリヤールの定義は違う。

浪費:必要を超えて物を受け取ること→どこかで限界を迎えて、満足感を得ることができる
消費:物に付与された意味や観念を受け取る。物は記号にすぎない。→限界を迎えることがなく、満足感を得られない

そして、現代の社会は「消費社会」と言われる通り、私たちに物の「消費」を強制する。つまり「浪費」ができない=満足感を得られる物との関係を築くことができない状況に、私たちを追いやっているのだ。

浪費と消費に対するボードリヤールの定義が大変面白かった。わたしが最近買った物を振り返ってみても、物自体が欲しかったというよりは、それに紐づけられるエピソードが面白かったり、インスタに投稿したら面白そうだったり、友達と同じことをしてみたいだけだったり、そういうことが多いなあと思う。物を受け取ったことで満足感を得ることは少ないのかもしれない。すごく怖くなった。際限がなく物を消費することは、経済的にも精神的にも自分を消耗することにつながると思う。これからはちゃんと物自体に向き合いたい。

環世界という概念

理論生物学者のユクスキュルが閃いた「環世界」という概念。

それぞれの生物は別々の時間や空間を生きている。単一の「環境」は虚構である。

ここで例として取り上げられるのは「ダニ」という生物だ。ダニは、視覚も聴覚もない。その代わり鋭敏な嗅覚や温度感覚がある。ダニが生きている世界には、光がない、音もない、でもそこらじゅうからいろんな匂いがする。それは、今自分が人間として生きている世界とは全く別物である。私たちは、自分の世界の中でダニを認識できるから、ダニも自分と同じ世界に生きていると感じる。しかし、実際にダニが生きている世界は、私たちが暮らしている世界とは違うのだ。それぞれの世界を「環世界」という。

この概念がすごく面白かった。知った後には「そりゃそうだ」としか思えないのに、その概念に出会うまでは、そんなこと思いもよらないんだよな。勉強になった。

ここまでが、個人的におもしろかったこと。どれも「暇と退屈の倫理学」の議論の本筋とはちょっと違う部分だけど、印象的だった。

自分で考えたいこと

筆者の主張も分かるけど、もしかしたら別の考え方もあるかもしれないし、ちょっと自分でも考えてみたいな〜ということ。

人間と動物の違いについて

著者は人間と動物の違いについて「環世界移動能力」を定義して説明している。環世界移動能力は読んで字のごとく「環世界を移動する能力」のこと。

人間は他の動物と比べて相対的に「環世界移動能力」がかなり高いらしい。例えば、天文学者の環世界は、星空に詳しくない人の環世界とは異なる。しかし、天文学を勉強すればだれでも天文学者の環世界を生きることができるようになる。また、オフィスにいるときの環世界と自宅にいるときの環世界は異なり、私たちは1日のうちに異なる環世界を何度も行き来している。

個人的に気になったのが、そもそも天文学者の環世界とそうでない人の環世界を区別して考えるべきなのか?ということ。知識がなくても同じ星空を見ることができるし、同じ時間と空間にいるのではないか?と思った。知識があれば、星空を見た時に感じることや考えることは変わってくるだろうと思うけれども、環世界が異なるとまでは言えないのではないか?という気がする。環世界の違いというより、同じ環世界にいる時の思考の奥行きの違いがあるのだと思う。同じようにオフィスと自宅の例についても、それぞれ環世界が異なるとは言えないのではないかと考えている。この場合の違いは、思考の奥行きでもなくて、単純に環世界の中でどこにフォーカスしているか?ということの違いがあるのだと思う。例えば、オフィスの中では耳をそばだてて周囲の環境に気を配るが、自宅ではテレビが見たいから視覚に集中する、とか。

それぞれの環世界が実は異なるものではないとすると、人間の環世界移動能力が高いとは言えない。人間も動物ではあるけれども、他の動物と区別するとすると、単純に感覚器官の特徴や数が異なる、ということなのではないだろうか?つまり、人間はより細かく、多角的に世界を認識することができているということである。

しかし、この定義では、他の動物と比較した時の人間の思考力・想像力の高さを無視している。ぱっと思いついたアイデアだけれども、同じ種の他の個体に対する共感力みたいなものも世界を構築する上で重要なのかもしれない。この辺りは、また後で考えることにする。

※ここで注意と謝罪と言い訳
私はユクスキュルの著作を読んでいないので、「環世界」の定義を正しく理解できていない可能性が高いです。「暇と退屈の倫理学」を読んだ段階の考えだということを書き残しておきたいです。

結局退屈なときどうするの?

著者の結論は全部で3つあった。退屈なとき、どのようにして切り開いていくかということが結論として述べられている。

①読者は既に〈暇と退屈の倫理学〉の実践のただなかにいる
②贅沢を取り戻すこと
③〈人間であること〉を楽しみ、〈動物になること〉を待ち構えること

また、著者は本書の議論の中でハイデッカーの述べた退屈に対する解決策「決断によって自由を発揮せよ」という内容を批判している。なぜなら、そもそも退屈している人に対して「それは自由の可能性を示している!今こそ決断するときだ!」というのは解決策にならないだろうから。また、決断した後のことをハイデッカーが述べていないからである。

ハイデッカーの議論をまとめた、本書の内容の簡単なまとめ
「なんとなく退屈だ」というとき、人間は外から何も与えられない状況にある。故に自分自身に目を向けざるを得ない。それは自分の持つ可能性に気づくきっかけになる。
つまり、人間は退屈する。退屈するということは、人間が自由である可能性を示している。決断によって、自由を発揮せよ。

著者は、退屈な時にどうしたらいいか?という具体的な解決策を述べていない。そこで私なりに、自分ならこれからどうするか?ということを考えてみたい。

著者の結論③の「待ち構える」という態度がそもそも受動的なので、いざ自分から退屈に向き合おうとした時、何をしたら良いのかわからない。退屈そのものに向き合う方法がわからなければ根本的な解決策にはならないのではないかと思う。

退屈な時にできることは何か? 結局ハイデッカーの言う通り自分に向き合うことしかできないのではないかと思う。退屈な時は何もすることがないので、そういうときこそ自分が「何をしたいのか?」「何ができるのか?」を考えるチャンスである。そして、「あれをしよう」「これができるからやってみよう」など、自分と向き合った結果として「決断」がある。

決断: きっぱりと心を決めること。

しかし、決断したら退屈することがなくなるかというと、そういうわけでもない。なぜなら、決断は退屈したときに自分と向き合ったことの結果であり、退屈それ自体の解決策ではないからである。むしろ重要なのは決断した後にどんな行動を起こすかである。

私は、退屈の解決策は短・中・長期的なそれぞれの視点で考えるべきであると思う。長期的視点では退屈と向き合った結果の「決断」に大きな価値がある。しかし、短期的・中期的な視点で考えれば不十分である。

短期的、つまり退屈している今を取り急ぎやり過ごす方法として、私がパッと思いつくのは、感覚に集中することと気分を感じること。そのとき自分が触れているものの触り心地を確かめてみたり、自分が嬉しいのか悲しいのか、それともまた別の気持ちなのか感じようとしてみたり。意外とそういうことをする瞬間は少ないのではないかと思う。とりあえず、私はやってみたいなと思っている。

そして中期的には、楽しいこと、やりたいことのリストアップが有効なのではないかと思う。どんな時に楽しいと感じるのか、何をやりたいと思っているかを整理することは、自分を理解する時の手助けになり、決断を後押ししてくれる。

決断と決心について
改めて考えてみると「決断」という言葉は適切ではない気がするな。自分と向き合った結果、何かを「きっぱりと決められる」人がどれだけいるだろうか? 大抵、自分が何がしたいのかわからなかったり、何ができるのかわからなかったりするし、それでもとりあえず無理くり決心して進むしかない、ということが多い気がする。自分と向き合って何かを決断できると考えるのは理想的すぎるのではないだろうか?

感想

ここまでで本を読んで印象に残ったことや改めて自分の頭で考えてみたことをまとめ終えた。書いている方も疲れたが、読む人もだいぶ疲れていると思う。

退屈とはなんだったか?

退屈:
① 何もすることがなく暇をもてあます・こと(さま)。
② 飽きること。つまらないこと。いやになること。また,そのさま。

私は「嫌気がさす」という言葉が、退屈した状態を示すのにぴったりであるような気がする。

私たちはなんとなく「人生には目的や進歩が必要である」と感じていて、そういったものがないときに人生に嫌気がさすことがあり、深い退屈を感じる。そもそも人生に目的や進歩が必要であると感じる必要がないし、もっと気楽な気持ちで過ごしていれば、深い退屈に思い悩むことも少なくなるのではないかと思う。

退屈は絶対的な状態である。嫌なことやつまらないことであれば相対的に評価できるが、退屈それ自体は相対的に評価することができない。そして、楽しさや心地よさは相対的に評価できる。そう考えると、楽しい気晴らしが退屈を根本的に解決することがないのも納得できる。

退屈について考えてみて思ったのは、「それ自体を思考の対象とすること」の重要さ?楽しさ?である。退屈それ自体について考えてみることで、退屈に100%飲み込まれることがなくなる。退屈している自分をいくらか客観的にみることができるようになるのだ。それは、楽しさや悲しさなど他の気分や状態のときも同じである。

【自分で考えてみたいこと】の中で、決断することが長期的視点では退屈の解決策になりうるというようなことを述べたが、私も一つ決めていることがある。「自分自身がどんなことを楽しむのか知る」ということである。私は今のところ、このために生きている。

この本は、とても分かりやすく面白かった!しかし、その分怖い部分もある。私は大学時代から「分かりやすさは敵だ」と思うことにしている。なぜなら、自分が何を理解できなかったか分かりづらいし、筆者の隠された意図やあえて書かなかった情報に気づきにくいからだ。分かりやすい時こそ、なるべく批判的に読もうと心がけている。今回もその気持ちで読んだが、見当違いな意見になっている部分もあると思う。ご指摘などあればぜひ。

さて、今回「暇と退屈の倫理学」を読んでまとめたかったのはここまで!個人的には頑張って書いたので達成感があった。いつかまた自分が読み返した時に面白いのではないかと思う。だれかが読んで面白いと思ってくれたらもっと嬉しい。

次は、ユクスキュルの「生物からみた世界」を読んで感想文を書きたいと思っている。

また来週〜

おまけ:今回のBGM

(SixTONESの2ndアルバム楽しみ)

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