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百年文庫の百冊を読む 002・69「水」

百年文庫、今回読んだのは69巻目「水」。水はどのように表されていたのか。

一作目は書き出しが水である。

水が何より旨い、と言って、父はときどき水をもとめるほか殆ど何も食おうとしなかった。

そのように直接水を連想させるものだけでなく、春を迎えて病院前にある植物の生殖と看護婦を対比させて描いているところは、湿気でむっとするような感じでもあり、とても映像的だ。

外へ出ると、病院の垣根には遅い八重桜が咲き乱れていた。これらの花の息詰まる生殖の猥雑さを、人は怪しんでいないのだろうか。白い看護婦たちの忍び笑う声を内包した病院の建物の外で、桜はむせかえるように花粉を巻きながら無言のうちに生殖し生殖しそして生殖している。そして看護婦等の肉体は粘液のようなものを唇や腰部から分泌する、病院の光った廊下をスカアトを曳いて走り、扉の握りを開くときに。

二作目では、病気の妻とその夫が住む家の前には大きな海がひかえている。
こちらも、直接水を連想させるものだけでなく、新鮮な生ものの描写が瑞々しさとグロテスクさを感じられて印象的。

この曲玉のようなのは鳩の腎臓だ。この光沢のある肝臓はこれは家鴨の生肝だ。これはまるで、噛み切った一片の唇のようで、この小さな青い卵は、これは崑崙山の翡翠のようで

そして、夫が『花粉にまみれた手で花束を捧げるように持ち』、妻は花束を両手で胸いっぱいに抱きしめ、顔を埋めて、目を閉じる。
二作目は、春を迎えて、妻の死を連想させて終わる。一作目では春が『死にかけたものに今一度生の喜びを窺わせ』るものと描かれているが、それは二作目にも通じている。

三作目は、『さながら水に浮いた灰色の棺である』という北原白秋「おもひで」の引用から始まる。物語の中で、水に浮いた棺とは、人工的な運河によって町が区切られている『廃墟のような寂しさのある、ひっそりとした田舎の町』。この物語の主人公はこの町だ。これがいいんですよ。他にも町が主人公の何かあった気がするのだけど、思い出せない(うーん)。

大学生の頃に一夏をその町で過ごした「僕」の目で、沢山の掘割がある田舎の町や人々の営みが描写される。まるで映像を見ているような、そして映画化されていたら見たくなるような気持ちになる(※)。

道は細くてくねくね曲がり、またどっちへ曲がっても必ず石づくりの橋に出た。それはまるではじめに川或いは運河があり、それだけでは不便なあまり道をつけたとしか思われなかった。橋の欄干の両側に必ず街燈が立っていてその灯影を水に映していた。そこに電気が点いていれば、ああもう遅い帰ろうと思って、僕は道を戻り始めるのだ。

「僕」が気に入った町だが、世話になっている屋敷の関係者は、『こんな死んだ町は大嫌い』だとか、『いずれ地震があるか火事が起るか、そうすればこんな町は完全に廃市になってしまいますよ』と言う。
その言葉通りに、町に大火災が起こる。そのことを10年後の「僕」が新聞で知ったというのが物語の冒頭。上述の記述は、そこからの回想シーン。現在よりも過去が色鮮やかに描かれていて、それが印象深い。

町の描写だけではなく、屋敷の姉妹と姉の夫の関係などもミステリアスに描かれていて、それも読み進めたくなる一因。

※ 「廃市」映画化されてました。大林宣彦監督で。今度見てみよう。

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