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『とうだいもとくらし』

当noteは、2018年7月16日にサークル「キンシチョウコ」より頒布されましたオリジナル小説『とうだいもとくらし』のweb掲載版です。
装画はジビエ様(https://twitter.com/jibie98 )に担当して頂きました。

(本文9431字)

『新月色、セーフライト、』の続編に位置するものですが、こちらから読んでも支障のない作りになっています。



 波の音が、閉ざされている筈の扉や窓の僅かな隙間から沁み込んでくる。日中は比較的穏やかに見えた海だったが、日が落ちて彼が自宅としている灯台に戻るとまるで我が身に襲いかからんばかりの迫力を持ってくる。実際に窓を開けたり玄関から外に出てみたりすれば海岸線は遥か下にあって、それこそ数百年ぶりの津波でもなければ危険に晒されることはないのだが。
 日中に家内で過ごすぶんには殆ど気にならないが、日の暮れた瞬間から波の音は色を変えたようになる。
 そう、色だ。波に色が見える。
 煙、とも違う。線香の煙が急に襖を開けて風に吹かれたような、何らかの物質だ。微かに青みのある煙が、夜毎窓や扉の隙間から這入り込んでくる。
 いつからだろうか。波音の色、などという彼自身信じていなかったものが見えるようになったのは。
 引っ越してきてからだ。

 新居初めての夜は、嵐が来たかと勘違いした程だった。寝床を抜け出して窓の外を窺ったが、体感よりも遥かに穏やかな波が月明かりに照らされて寄せては返すばかりだった。音響だけは迫力があるのに、視覚情報が遥かにそれを下回って違和感を覚える。
 彼はこれまで海辺に住まった経験がなかった。
 同居人であるハレルもそうなのだろうか。きっとそうだろうと予測する。ハレルの実家を一度遠くから見たことがあるが、あれは何代も同じ土地にある質の家だった。
 彼は寝床に戻り、あと半回転もすれば転げ落ちそうな位置で眠っている同居人を見遣った。ベッドに膝を乗せれば、彼に背を向けているハレルの体が僅かに弾む。投げ出された腕を引いてベッドから落ちないよう戻そうとした彼は、確かに自分の力で振り返ったハレルが目を開けていることを、卵色の豆電球の元に発見した。
 起きていたのか。
 彼が起きだしたために眠りを妨げられたのか、いや、それ以前にハレルも波の音が気になって眠れないのか。
 そうだといい。
 俺と同じように。
 彼は希望的観測を持ちながら、ハレルの腕を掴んだまま新調した毛布を被った。必然的に毛布がずれてハレルの体が空気に晒されるので、彼はハレルごと抱き寄せ、温もりを掻き寄せる。季節に似合わず不思議と暑さを感じない。どこからか風が吹き込んでいるのだろうか。
 ハレルは手のひらを彼の胸板に押し付けていて少しだけ抵抗していたが、彼がその顔を覗き込むと意外にも不満の表情は見せていなかった。代わりに感情のよく見えない目で彼をじっと見据えていた。
 ハレルはこんな目をしていただろうか。
「波の音が怖いの、」
 語尾を上げた疑問形に彼は首を横に振りたかったが、ハレルは既に目を閉ざして耳を彼の胸に押し付けていた。確かに、外の様子を窺って影を幽霊かと見紛い怯え、親の布団に潜り込む子どものような態度だったと彼は恥じ入った。
 紛らわすように頭をぐるりと巡らせてその時彼は初めて見たのだ。
 仄かな青が寝室を覆っているのを。

 今夜もそうだ。
 彼は扉や窓の隙間から染み込んでくる青色を眺めていた。部屋に立ち込めるこれは月光が生み出す像かもしれない。いや、扉は閉めきっているし窓は新調した遮光カーテンが塞いでいる。なのに風景はこんなにも、青い。
 彼は気紛れに出会った頃のハレル思い出そうとした。だが、浮かんでくるのはかつて写真部の暗室で一緒にいたハレルの下らない話ばかりする声だけだった。
「肘って顎に付かないんだよ」
「チリが内乱で東西分裂したって。まあ嘘なんだけど」
「ランドセルって最近はカラーバリエーションが豊富だよな。羨ましい」
 ハレルの姿は浮かんでこないのに、綺麗な声色と無駄な内容ばかりが残っている。暗室の赤色の着いた暗闇に、今よりも遥かに饒舌だったハレルの声が響いている。指定の女子のセーラー服を着ている姿すら思い出せない。
 尤も、ハレルは思い出してほしくなさそうだったが。
 二人きりだった写真部はきっと、彼等が卒業したと同時に廃部になっただろう。確認したことはないし確認しようとも思わなかったが、彼にはどこか確信めいたものがあった。彼は入学から卒業まで、唯一真面目に活動していた部員だった。
 記憶はどんどんなくなっていって過去は増えていくが、自分が成長したかと言えばそんな気はしない。
「気楽なもんだな」
 そう言われたことがある。確か、現在の自治体に雇われる前に他の企業に面接に行った時のことだ。誰かにそう指摘されると安心した。少なくとも、彼自身と世間の認識にはずれがないのだと確認出来た。
 彼は実家に甘えている。滅多に帰らないものの家族とも連絡は取り合っている。主に金銭を催促する時だが、出世払いでいい、と嫌な顔はされない。家族は全員口下手だと彼から見て思うが、家の中が静まり返っていたとして険悪な訳ではない。ハレルと一番の差異を感じる点はこの辺りに関係していると彼は感じていた。
 海辺で常に波のぶつかる音が嫌が応にも入ってくる今でこそハレルは黙り勝ちになったが、元々ハレルは沈黙を恐れている節がある。
 彼は寝返りをうった。
 目の前にハレルの開いた目があった。ハレルは、高校時代も暗室で同じように彼を見つめていたのだろうか。
 写真の現像に夢中で気が付かなかった。
 彼は目を覚ましたままのハレルに手を伸ばした。
 目蓋を閉じさせるように手のひらで覆ったが、ハレルは彼の意に反して目を何度も瞬いている。睫毛が手のひらに当たってこそばゆい。
 彼はふと思い立ってハレルに接近したが、今度は目を塞がれている筈のハレルの、温かい手のひらが狂いなく彼の唇を覆った。
 彼は口付けに失敗した。


 ハレルという呼び名は二人で決めた。性別の見える名を彼女が忌み嫌ったためだ。ハレルは初め晴哉と書いてハレルヤと呼ばせようとしたが、彼は断固拒否した。
「こそばゆい」としか説明できなかった。相手は少しばかり不満そうにしたが、それきり黙って、次に口を開いた時には全く別の話題で、あからさまに深い議論を避けている。ハレルの態度に思うところがないでもなかったが、だからと言って彼も「腹を割って話そう」と言える質ではない。ハレルよりも口下手で何かと説明の足りない自覚があるのに、どうして本当に思っていることの提示を相手に要求出来るだろうか。
 名前に関しては結果的に、晴と書いてハレルと読むことにした。しかし外でわざわざそう名乗る訳ではない、そもそも引きこもり気味でハレルが誰か他の人間と話す場面をここ数年では見てこなかったので、この名で呼ぶのは彼しかいない。
 ハレルという名前は新たに作ったが、苗字は彼のものを使いたがる。彼にはよく分からない価値観だったが、やはり彼は口出ししなかった。
 因みにハレルは、彼のことを未だによく部長と呼ぶ。前時代的で凡庸な名前を彼本人も気に入ってなかったので渡りに舟ではあった。しかし、たまには名前で呼ばれたいような気もした。よく分からない感覚である。

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