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会社からの帰り道、自転車借りてみた

シェアバイクというのが、ここ大阪市内にも増えてきた。
決められた「ポート」ならどこで借りどこで返してもいいというやつ。時間制で、だいたい30分100円くらい。

1年前くらいだろうか、家の近所のコンビニにもこのポートができた。会員登録もしてみた。
気になりだすと、意外と目に入ることに気づく。ウーバーイーツの人も、じつは1/3くらいは自前の自転車じゃなくて、このシェアバイクだ。

近所で何度か使ってみると、たしかに便利だ。電車に乗るより安いし、駅から歩くことを考えるとこっちのほうが速い。電動だから坂道も楽で、雨とか気にせず、思い立った場所から使える。
たしかに、合理的だと思った。
趣味として自転車を楽しみたいなら所有すればいいが、自転車を移動手段とするなら買う必要なんてなく、シェアのほうが便利で安上がりだと思った。

そう、経済的に合理的だと思っていたのだ。


何気なくアプリを見ていると、会社から歩ける距離にもポートがあった。
大阪市外にもあるなんて思ってもいなかったので、試してみたくなって、会社から家まで自転車で帰ってみた。

せっかくだから、ふだん通ることのない淀川の北岸を下ってみた。

夜に使うのも初めてだったけど、ライトもしっかり明るい。加速も快調。
橋を渡って堤防上の道に入ると、空が大きく開けた。

右手の建物は視界の下側に沈み、左手には黒く川が流れ、目の前には夜空。
今夜は半月だ。
その隣にみえる星は、何だろう?

しばらく進むと堤防上の道は橋に阻まれ、その先は河川敷を通ることにした。
昼間は緑がうっとおしいくらいの道だが、そら恐ろしかった。
両脇から、覆いかぶさるように木々が迫る。もちろん街灯なんてない。
頼もしく思っていたライトもわずか数mしか光が届かず、道がこの先どう通じるかも照らしてくれないし、左右の黒い森に何が潜んでいるのかも照らしてくれない。

そんな中を延々数十分進み、河川敷を離れる場所まで来てほっとしたとき、
このときいま感じていたのは、夜に対する原初の恐怖心じゃないかと、そんなことを感じた。


こうして自然を強く意識すると、対比的に感じるのが、日々の人工的な夜。

電車に乗って通勤していれば、電車のなかで上をみても、電車の天井があるだけ。
窓ガラス越しに見える夜空も、はたしてここまでの実感をともなっただろうか。
たとえば高速道路とか、夜に遠くから都会を眺めるとと、街は上空までうっすら白く光っているように見える。市内では、夜でもそこかしこに人工の灯りがあり、空を染め上げているのだ。このうっすら明るい空は、まるで人がつくりあげた巨大な天井かのような閉塞感さえ感じさせる。


シェアバイクは、いつもどおり通勤の電車1本に乗るのと同等の値段と手間で、生身で体感する自然をぼくに教えてくれた。

シェアリングエコノミーについて、いままでぼくは、経済的合理性についてしか考えたことがなかった。もし好きなら所有すればいいと考えていた。
でも今回の体験はそうではない。じつはシェアだったから、感情的な体験に手軽にたどり着けた。
この感情的な体験は合理性ではなく、むしろ不要不急の部類であろう。でも、こういう体験したからこそ、また使いたいと思えた。

コロナ下で不要不急が叫ばれるいまは、東日本大震災後の自粛ムードを思い出す。でもあのときのことを振り返ると、記憶に残ってるのは自粛した思い出ではなく、思いがけない人の優しさだったり、自然の強さだったり、ちょっと感情が動く体験だったと思う(住んでるのが関西だからかもしれないが)。
無駄なこと、こそが、ロボットにできない、人間特有の行動である。経済的に合理的でない部分が、不要不急にこそ、人間の心にとってのビタミンであり、人間の文化のもとになるエッセンスがあると感じた。
知ってしまったからには、もっとほかのシェアサービスも使ってみようと思う。


ちなみに、返却したのが1時間を2分オーバーしていたので、超過料金で電車に乗るよりかえって高くついたのがいまでも悔しい。。。

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