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人生の分岐点(3)

20歳の夏、自衛隊を辞めて佐世保へ帰ってきた。

舞鶴から佐世保までは確か、新幹線と電車を乗り継いて8時間ほどかかったと思う。
連休の時にも佐世保と舞鶴を往復したことは何度かあった。
今回決定的に違ったことは、もう佐世保を出る電車に乗らなくていい。近所の駅で家族と別れなくていい。なんだかほっとしたのを覚えている。

無職で収入もなく実家暮らしとなったわけだが、自衛隊を辞めるときに父から「収入がなくても家に食費を入れないと家には住ませない」と言われていた。

自衛隊の時に少しは貯金もしたが、まずは少額でもすぐに就職する必要があった。
世の中にどんな仕事があるのか、佐世保で働ける企業にはどんなものがあるのか、本当にあのときの僕は無知だった(今も無知だけど...)

そこで、介護施設で働いていた母から「とりあえずすぐに働くなら、介護士は人手不足で力仕事もあって、特に男性は喜ばれるしすぐに働けるんじゃないか」と言われ、流れのままに僕は近所のデイサービスで介護士になった。

介護の仕事は初めての連続で、まずは朝、車で高齢者を自宅まで迎えに行き、到着後は血圧を測ったりして、人によってお風呂に入れたりトイレの世話をしたり色々ある。
けっこう人見知りだけどおばあちゃんからは人気があった。

そんな中、今の妻が後輩介護士として入社してきた。(妻の話はいつか別の記事で書こう...)

そのころ23歳、彼女もできたことがなくこのまま結婚もできないと思っていた。
最低限の生活費が稼げればいいと、「出世したい」とか「稼ぎたい」みたいな野心は一切なかった。

しかし彼女ができて結婚を意識するにあたり、「そのままじゃダメだ」と職業を強く意識し始めた。
妻には「介護士は収入が低い、転職しようと思う」と伝えた。
しかし、当時の妻は介護職を辞めることに反対、理由は妻の父がとても厳格な人で介護職、特に「ケアマネージャー」はすごい職業だと思っているとの事だった。
つまり妻の父に結婚を認めてもらうためにはケアマネージャーとなることが一番許してもらえるとの事だった。

ここから結婚のために、ケアマネージャー(略ケアマネ)を目指すことになる。

ケアマネ、正式名称「介護支援専門員」は介護保険、医療、各種制度、対人援助、ソーシャルワーク、リスクマネジメント、ファシリテートなど様々な素質を求めらる職種であり、介護福祉士などの国家資格を持った上で、介護や看護などの実務経験が最低5年あって、試験を受けることができる。合格率も年々低くなっており、僕が受験したときの合格率は14%だった。

25歳の秋、実務経験がまる5年となりケアマネの受験資格を得てそのまま試験を受けることになった。そのころグループホームという入所施設で働いており夜勤中も暇さえあれば試験勉強をしていた。
妻の家族には挨拶を済ませており、妻の父には「ケアマネになります!上を目指します!」と言って結婚を許してもらった。

大学受験からも逃げた僕は、合格率1割の試験に億劫になってしまい「ケアマネになると言ったのに受からなかったらどうしよう...」といった不安が膨らんでいた。
2月には結婚式も控えていた。
そんな中、僕の父からは「ケアマネに今年合格しなければ、結婚式は挙げさせない」と厳しい追い打ち。
「男ならば、この程度のプレッシャーで泣き言を言ってはいけない。そんなやわな精神では家族は守れない。」
今回は逃げる道は断たれた。

必死に勉強した。試験会場でも誰よりも気合が入っていた自信がある。
なぜなら結婚がかかっていたのだから。

無事に合格した僕は、そのまま2月に結婚して、資格を取得した26歳の春に、おそらく佐世保市では最年少の居宅介護支援事業所のケアマネージャーになった。

続く...

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