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人生の分岐点(1)

現在31歳、3歳の子を持つ父親で長崎県の田舎生まれ田舎育ち。職業はケアマネージャー(介護支援専門員)

僕は2人兄弟の長男として育った。
両親に「弟が欲しい!弟が欲しい!」とねだり続けてついにできた待望の弟。だから年は7つ下。

今息子を何よりも大切に思っているように、ずっと弟が一番大切だった。毎日早く帰って弟とゲームをしたり、大人になるまで一緒にお風呂に入って少年ジャンプの感想を言い合ったり。
友人を家に呼ぶことも多かったが、弟への言動が嫌だった友人とは関係をすぐに切ったこともあった。

誰に言われたわけでもなく、子供の頃の僕の夢というか将来の希望は「今いる土地から出ることなく、家族の近くで、ある程度安定した職について生活したい」
きっと家族が好きで、ずっと弟とくだらないことで遊ぶ人生が良かったんだろう。

そんな漠然とした平和主義ともいえるものが僕の人生の方針だった。

父の事は尊敬しているが、「男なら家族を養うために安定した職につくんだ」といった考えが強い人だった。
きっと公務員あたりが正解となる価値観だったんだと思う。

中学生になったあたりから、具体的に進路のことを考えなければならない。そんなときも僕にはなりたい職業はなかった。

今思えば、小さいころからロボットや車のおもちゃ、テレビゲームが好きでいわゆる機械やデジタルが好きだったから、工業系の仕事を目指してもおかしくなかった。
でも父からは「好きなことを仕事にできるのは世の中の一握りの人間だけ」と教えられ
地元で働きたい気持ちが強かった僕は「工業系の仕事=都会へ出ないといけない」といった潜在意識があったんだと思う。


そんな中学時代、母が介護施設で洗濯パートで働いていて、「理学療法士っていう仕事があってね。医者じゃないけど『先生』って呼ばれてるしリハビリしてる人の手を引いたりしてて、収入も安定してるいい仕事みたい」と言われ、「じゃあそれになろう」と安易に決めた。

理学療法士っていうのは国家資格で、大学か専門学校へ行かないとなれないらしい。
家はあまり裕福ではなかったのを子供なりに考えてて、国公立大学一本勝負で行くことにした。

中学生まではなぜか成績も上から一桁の時もあって、本気で行けると思っていた。
しかし、地元の進学校である公立高校へ入ると、みるみる勉強についていけなくなり落ちこぼれとなった。
国公立どころか私立大学へ入れるかもあやしい。

そんなお先真っ暗な受験時期の高校3年生の春、親から「滑り止めとして海上自衛隊受けてみたら?」と言われた。

僕が住んでいる長崎県佐世保市には海上自衛隊の大きな基地があって、知り合いや親戚にも自衛隊の関係者は多い。
祖父も元海上自衛官で家族中の認識としては「自衛隊はそんなに大変な仕事じゃない、むしろ安定していて給料が高いいい仕事」といった感じだ。

受験に絶望しかかっていた時期だったので、とりあえず海上自衛隊の中でもエリートコースの「海曹候補学生」いうものを受験してみた。
倍率30倍だったのだが高校3年の秋、合格通知が来た。

よくわかっていない理学療法士になるため受かる可能性が極めて低い、国公立大学を目指すのか?
地元では評価も高く収入が安定している海上自衛隊のエリートコースへ進むのか?

僕は先が見えないストレスもあり、後者を選んだ。

18歳の春、僕は海上自衛官になった。

続く...

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