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人生の分岐点(2)

18歳で海上自衛官になった僕は、帰宅部で運動音痴、体力もない状態で超体育会系の海上自衛隊の教育隊へ入隊した。

半年間の教育隊生活は、悪く言えば刑務所に近い生活かもしれない。

毎日ラッパで飛び起き、極寒の中もシャツ一枚で外で腕立て伏せ。
制服のアイロン、靴磨き、髭などの身だしなみ。ベッドメイク、3歩以上はダッシュ、毎日夕方は吐くほど走らされる。


外への外出が許されるのは週に1回週末だけ。
僕は走るのも遅かったし、懸垂ができなかったし、泳ぐのも遅かったし休日も居残り練習をしないと外出させてもらえなかった、人より外出時間が短かった。
そんな中、毎週末いつも教育隊の門の外に母が車で迎えに来てくれていた。

皆、週に1回の外出を街に繰り出して遊んでくる中、僕はかかさず自宅で家族、特に弟と過ごした。
夕方に母から教育隊の門まで送ってもらって、別れるとき心情はいつも泣きそうだった。

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「これは佐世保勤務になって、これからもずっと家族の近くで生きていくために必要なことなんだ...」

「海曹候補学生」はエリートコースだが、一般の自衛官と違い約2年の様々な実習を得て、いきなり部下を持つ立場になる。そこで初めて正式な部隊勤務となる。
この厳しい2年間をのりきれば晴れて地元である佐世保市勤務で安定した生活を手に入れられると信じていた。

2年後の20歳の春、僕の階級は上がり正式に部隊配置の通達に上官の部屋に呼ばれた。

言い渡された勤務地は「京都府舞鶴市」だった...
転勤希望を出しても10年は佐世保へ移動することは叶わないと…

僕の一番の望みは今も昔も、佐世保で家族の近くで生きること。
すぐに上官に退職したいと伝えた。

しかし、僕が退職した場合、「舞鶴へ送る隊員の人員は決まっている、今辞めたら佐世保に勤務することが決まった同期の友人を舞鶴へ送る」と通告された。

あのときは絶望した。
自分の人生と友人の人生を天秤にかけなければならなかった。

苦渋の選択で僕は一度舞鶴へ勤務することになった。

結果、舞鶴へ3カ月ほど勤務したあと、僕は海上自衛隊を退職した。

自衛隊にいたときは精神が病んでいたのか、当時大学3年生の高校時代の友人とはすべて関係を断ってしまった。
自衛隊の時に仲の良かった友人もたくさんできたが、辞めてしまった後ろめたさから、彼らともほとんど連絡を取らなくなった。

普通科高校なのに大学へ進学せず、自衛隊のエリートコースも辞めて、佐世保へ帰ってきた僕には何も残されていなかった。

続く...

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