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隣の芝が青く見えたら -高松美咲『スキップとローファー』

隣の芝生が青く見えたら この庭に花を植えればいい

竹内まりや「幸せのものさし」(ワーナーミュージック・ジャパン、2008年) 

 いわゆる「隣の芝は青い」の心情を、社会学では「相対的剥奪」と呼ぶらしい。人と比べて(相対的)自分は何かを奪われている(剥奪)ように感じる、ということだ。「あの人は私にはない〇〇を持っていて、うらやましい」。その感情は時に、私たちの自己や他者に対する捉え方をゆがめてしまう。
 思春期における「相対的剥奪」を超えた友情はありえるのか。高松美咲『スキップとローファー』は、そう問いかけている。


1 ローファーを履きながら、スキップしようとする

 『スキップとローファー』は、ローファーを履きながらスキップしようとする物語だ。
 「スキップ」とは、主人公・岩倉美津未の軽やかさである。過疎地の温かな人間関係に包まれ小規模校で育った美津未は、いわゆる「スクールカースト」を知らない。美津未は悪意に鈍感であり、自分が正しいと思ったことはすぐ行動に移す。良く言えば実直、悪く言えば空気の読めない人である。
 「ローファー」とは、学校という現実の重力である。生徒たちは学校内の集団生活において、目には見えない階層制を内面化している。生徒たちは集団(主に所属学級)における自らの位置づけに非常に敏感であり、自らの階層にふさわしい「キャラ」から逸脱しないよう慎重に行動する。「上」も「下」もそれぞれの階層がそれぞれの生きづらさを抱えている。
 そして物語は、高校進学に伴い上京した美津未が、スクールカーストを内面化した東京の同級生たちの中に、異分子として加わる形で始まる。美津未は、そして彼女に感化された同級生たちは、学校の中にいながら、学校における人間関係の構造を乗り越えることはできるのか。『スキップとローファー』は、高校生活における登場人物同士の関わりを積み重ねながら、この問いへの回答を示していく。
 物語は美津未の高校入学から始まり、現時点(単行本8巻)では高2の初夏までが描かれている。1年生編では、個のレベルで立場の違いを超えた絆が生まれる希望を描いた。一方2年生編では、学校における人間関係の構造は変えられないという限界を描いている。

2 結月と誠が示した希望

 1年生編における大きな出来事のひとつは、村重結月と久留米誠の接近である。ふたりの仲が深まった経緯に、相対的剥奪を超えた友情の可能性が見出せる。
 美津未を介して知り合った当初、このふたりの相性はあまり良くなかった。誠は眼鏡をかけ髪型は三つ編み、部活は文芸部である。結月は帰国子女で髪色はブロンド、モデルのような顔立ちとスタイルをもつ。表面的な印象で言えば、ふたりは全く違うタイプの人である。
 当初、結月はフランクに誠に接しようとしたのだが、誠が結月を警戒して冷淡に接してしまっていた。誠が結月を苦手だと感じていたのは、誠が自身の経験則(美人ってこういうヤツ)で結月を捉えていたからである。しかし、誠は結月と接するなかで、その先入観を省み、改めていく。そして、お互いの精神的危機(恋愛絡み)に真っ先に駆けつけたことで、ふたりはお互いを大切に思う親友になっていく。
 私たちは、隣の芝の青さをうらやむとき、隣人が抱える内実にまで想いを馳せようとはしない。隣の芝の持ち主は、その綺麗な芝を手に入れるために、これまで数々の努力を積んできたのかもしれない。青々とした芝を保つには、今なお日々多くの労力が必要なのかもしれない。あるいは、そうした事情を理解しないまま勝手に寄せられる羨望の眼差しに、当の芝の持ち主は疲れているのかもしれない。
 自分が何を奪われているかを嘆くだけではなく、青く見える隣の芝の裏には何があるのかを想像すること。そうすれば、青い芝を持つ隣人と手をとりあうことができる。個のレベルでは、相対的剥奪を乗り越えた友情を築ける可能性がある。これが、誠と結月の示した希望だ。

3 美津未が直面した挫折

 しかしその成功は、あくまで個のレベルに留まる。美津未が1年生のクラスで仲良しグループと築いた絆は、学校生活をやり過ごすためのアジール(避難所)にはなるものの、生徒間の人間関係の構造そのものを変える力はもっていない。
 2年生に進級し、仲良しグループはクラス替えによりバラバラになった。美津未は、1年生時とは人間関係の勝手が違うことに戸惑い、次第に軽やかさを失っていく。
 「他人の評価なんてどうでもいいって言いきれるくらい 愛されて生きてきたんだね」(※1)。美津未は自らの実直さをクラスメートにこう皮肉られ、「鉛が 胸に落ちたみたい」(※2)と感じる。ローファーを履きながらスキップしようとする美津未の軽やかさは、温かな人間関係に包まれていてこそ成立していたものだった。無条件に愛されるとは限らず、周りの評価が気になる環境のもとでは、足取りは重くなる。
 美津未は規模も勝手も違う東京の高校で、すべてを手に入れようとしていた。好成績も、親友との友情も、生徒会活動の成功も、そして志摩との恋愛も。しかし、それらをすべて抱えられるほどの器用さを、美津未はもっていない。「わかってた ずっと 全部は無理だって」(※3)。自らの限界に直面し嗚咽する美津未は、もはや「天然」でも「しあわせ」でも「インフルエンサー」でもない。生徒同士の人間関係に揉まれ、適度に空気を読みながら振る舞っているだけの、普通の高校生である。
 学校生活において、全てが充実している人など、どれほどいるのだろう。学業で好成績を収め、スポーツも万能、部活動や委員会活動でも活躍し、容姿にも優れ、外見も内面も素敵な友人たちに囲まれ、誰もがうらやむ恋人を得て、家族関係も良好。そのすべてをもつ人など、ごく一部ではないか。
 しかし学校という場所は、そう冷静に考えることを許さない。学校生活の幸福度は、どれだけ学校生活に「前向き」にコミットするかによって決まる。「みんなで・同じことを・一斉に」行い、同級生と濃密な人間関係を築くことが求められる。社会とは隔絶された特殊な環境のなかで、相対的剥奪は生々しく可視化される。成績は良いのか悪いのか、部活や委員会活動は華やかか地味か、容姿はイケているのかいないのか、つるむ友人は陰キャか陽キャか、恋人はいるのかいないのか。そうした要素を絡め合わせた総合評価として、個々の生き方は序列化される。
 自意識が肥大化する年頃に、自分が何を持っていないのか、同世代にまざまざと見せつけられる。それが学校という場所なのだ。

 相対的剥奪を生々しく可視化する環境に身を置きながら、立場の違いを乗り越えた友情を築くことはできるのか。その試みは、個のレベルでは成功したが、構造のレベルでは失敗している。これが、今のところ『スキップとローファー』が示した回答である。
 ローファーを履きながら、スキップすることはできるのか。最終学年、そしてそれぞれの進路決定に向けて、物語が再起動することを期待したい。

(注)
(※1)高松美咲『スキップとローファー 8』(講談社、2023年)p.73
(※2)同上、p.75
(※3)同上、p.119


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