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花のない桜を、見上げたことはあるか。

 3月某日、午前8時30分。塾としては早い時間帯に、中3担当講師陣が校舎に待機する。この日は、公立高校入試の合格発表日である。スタッフ同士で雑談を交わしながらも、互いに緊張感を隠せずにいる。それも当然だ。積み上げてきた時間の結果が、この後数分で決着をつけられてしまうのだから。
 ほどなくして、塾の電話が立て続けになり始めた。自らの結果を確認した生徒たちからの電話である。祝福、ねぎらい、あるいはなぐさめ。電話越しに様々な言葉をかける時間が慌ただしく過ぎる。数分もすると電話も鳴り止み、一息つける時間が訪れる。達成感と無力感。満足と後悔。さまざまな心情が混ざり合い、身体の力が抜けていく。生徒たちが校舎へ来る前にこちらが立ち直っていなければと、重い腰を上げ動き始める。
 
 入試の合格発表は残酷である。合格発表で表示されるのは、合格者の番号のみ。合格者は自分の番号を見つけて喜び、不合格者は自分の番号がそこにないことを知り落胆する。弾かれた者は、そこに「ない」ことを通して自らが不合格のリストに「ある」ことを確認する。合格の最下位と不合格の最上位。その差が例え1点でも、あるいは1未満の小数であっても、両者の間には天地の差がある。それゆえ、受験生となった人は、次の春に自分が「地」ではなく「天」の側にいることを願い努力する。
 もちろん、受験の結果は本人にとって切実なものである。結果が求められるからこそ、進学塾や進学校は合格実績、進学実績をアピールし、受験生や保護者は高い実績をあげている塾や学校を探す。
 しかし、受験の〈結果〉にばかり目を奪われると、受験の〈過程〉で得られるものを見逃してしまうのではないか。〈過程〉で得られるものがあるからこそ、受験という営みは今なお続いているのではないか。

花のない桜を見上げて 満開の日を想ったことがあったか
想像しなきゃ夢は見られない
欅坂46「二人セゾン」Sony Records、2016年

 受験の〈過程〉で得られるものは何か。「学ぶこと」と「自分自身」に向き合うことだ。
 毎年、大学入試共通テスト、難関私立中の入試などのタイミングに合わせ、「受験報道」とも呼べる報道がなされる。受験生が集う受験会場と中継をつなぎ、番組のスタジオでは出演者が「受験生の皆さん、がんばってください」と励ましの言葉を贈る。受験生とは一般的に、歯を食いしばって頑張るべき存在であり、できることなら早く脱したい身分だ、と捉えられている。なぜ受験は「がんばって」と励まされるような「苦しい」営みなのか。
 受験が「苦しい」理由としてまず思いつくのは、長い時間勉強しなければいけないこと、である。受験生は、友人との遊びや好きなドラマなど、あらゆる誘惑を断ち切り、少しでも多くの時間とエネルギーを勉強に使うべきだ、という規範のもとで行動する。この構造を取り上げ、「遊ぶ自由を奪われ、塾に通わされる子どもたちはかわいそうだ」「競争と詰め込みが子どもたちを勉強嫌いにする」などと受験をくさすのは簡単だ。しかし、受験が「苦しい」本質的な理由は別にある。
 受験はなぜ「苦しい」のか。受験が、自分の足りないところにひたすら向き合う作業だからだ。
 入試はある意味シンプルな戦いである。決められた受験日に同じ問題を解き、一定の順位内に入れれば勝ち。ゆえに受験生たちは、志望校の合格ラインに自らの得点が達するよう、参考書や塾などを活用し、教科の実力を上げる。今まで習ったことを復習し、苦手な教科や分野を補強しようとする。これは受験生が向き合う「足りないところ」の、わかりやすい面である。
 しかし、受験生が向き合う「足りないところ」には、教科の実力だけでなく、自らの人格という面もある。
 志望校合格という目標へより確実に達するためには、様々な戦略が必要となる。目標と現在地の差を見据え、するべきことの計画を立てる。生活習慣を整える。効率的な時間の使い方を身につける。持続可能な活動ができるよう、休息も適度に取り入れる。情報の適切な取捨選択を行う。自分の得意なこと・苦手なことを知る。等々。単にがむしゃらにとりあえずやり続ければいい、というものではない。インプットとアウトプットをできる限り増やし、かつその努力が当日まで持続するように、生活と心の総体を自らデザインしていく必要がある。
 私たちは概して、自分の好きなことや得意なことだけ見ていたい、できるだけ楽をしたい、と願うものである。しかし、足りないところに向き合い、目標を達成するために努力することは、成長するために不可欠だ。
 得意な分野だけに逃げず、苦手な教科にも向き合う。自分の甘さに打ち勝ち、机に向かう。全ては、次の春のために。受験とはどこまでも、来年の桜を想像しながら、坂を登り続ける日々の積み重ねである。
 努力することに向き合い、学び方を学ぶ経験は、著名な予備校講師が説くように、受験が終わった後も「役に立つ」だろう。

 受験が「選抜」の制度である以上、誰もが第一志望を叶えられるわけではない。少子化の時代とはいえ、いわゆる「難関校」の受験では今も、解答する記号1つ、あるいは通知表の数字1つが明暗を分けるような厳しい戦いがある。自分が目指した桜を咲かせられず、春を「不本意」な場所で迎えた元受験生の目に、咲き誇る桜の花は、純粋に美しいものとしては映らないだろう。
 だが、春を迎えた者一人ひとりの心情に関係なく、桜の木に花は咲く。
 私たちは、暦の上で春になる頃から、桜がどの地域ではいつ咲くと予想を立て、蕾が開くと五分だ七分だと喜ぶ。しかし、全ての桜が花を咲かせられるわけではない。もうすぐ満開だというのに夜通し雨や風に吹かれ、人の目にふれることなく散ってしまうこともある。そして桜は儚い。満開の期間はせいぜい1週間である。いっとき満開の姿を愛でられたとしても、旬が過ぎ葉桜になった頃には、もう見向きもされない。
 だが、不本意に散った後、色が移り目を向けられなくなった後も、桜の木は生き続ける。暑い夏も寒い冬も、同じ場所で日々生き続ける。そして、次の春にまた、美しく咲き誇る花を私たちに見せてくれる。
 桜が美しいのは、単に色や形が清らかだからではない。人知れず厳しい季節を耐え抜いた先に咲く、その可憐でたくましい姿が、新たな春を迎える私たちを励ましてくれるからだ。

 新年度が始まりしばらく経つと、新しい装いに身を包んだ卒業生たちが教室に訪れるようになった。授業の課題や定期試験の勉強をしながら、「数学なんてなくなればいいのに」「私は英語に嫌われているんで」などとのたまう。教科の得意苦手は、そう簡単に変わらないものらしい。
 変わらない愚痴に苦笑しながらも、春を迎えた卒業生たちと、これから夏に向かう受験生たちを見比べて思う。面構えが違う。受験という、学びと自分自身に向き合う経験は、人をこれほどにも成長させるのだと、改めて実感する。
 受験は目的ではなく手段だ。今年咲かなかったら、この先どこかで咲かせればいい。運よく咲いたとして、その栄華は他の季節があったからこそ叶えられたものだ。

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 桜のように、咲き誇る人生を。この教室から巣立つ全ての人がそうであることを願いながら、今日も授業に臨む。

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